見たことのない桜

ここ千葉では、すこしずつ桜の花が散りはじめました。

この数日、SNSでは、誰かしらが撮影したさまざまな桜の写真が、画面を彩っています。

桜を見ると、撮影してしまいたくなる、目の前の感動をその状態のまま保存し、まただれかと共有したくなるのかもしれません。

R0013503.JPG

僕も40歳をすぎてからの数年、仕事を抜け出してカメラを片手に桜の花を撮影して歩いています。

ほんの数日間、世界は、桜によって覆われて春の訪れを告げられます。それは、高らかに生を宣言しているかのようでもあり、しかし花は、次の命を紡ぐための最後の命の燃焼でもある点で、死のメタファーでもあるんですね。

また花は、可憐で儚く、妖艶でもあり、つまりは性的なモチーフでもあります。アラーキーこと荒木経惟は、以前、しおれて腐りかけた花の写真を撮りました。崩れたフォルム、立ちのぼる(ようにさえ感じる)むせぶような臭気、花は、エロスの象徴、あるいはそれを表象してもいます。

桜の花を見ていると、心の奥の方がざわざわと色めき立つような、そんな感覚におそわれます。この甘い、しかし刺々しくもある感覚を所有して、いつでもそうした世界に浸っていたい。僕は、もしかしたらそんなふうにして桜にレンズを向けているのかもしれません。

けれどどんなに撮影しても、そうしたものを写真に定着することなどできません。むしろ撮るたびに、掌からこぼれ落ちていってしまうような。

SNS環境は、あっというまに桜の写真をデータベース化して、陳列ケースに並べてしまいます。これほどまでに桜が気軽に撮影され、誰もがそれらを手軽に見ることが出来るようになって、ゆえに僕たちは、生の桜と対峙するあの感動をどんどん遠くへと押しやってしまうのです。

しかし僕は、桜を撮影した写真に悲観しているわけでもないのです。かつて2度ほど、「見たことのない桜」の写真を見ているからです。

それらの写真は、生の桜を写真に定着するということではなく、全く異なるベクトルで、しかし桜そのものでしかないものとして、僕の心を揺さぶるものでした。感情が爆発することなく心穏やかに、けれど涙がコロコロとこぼれてしまうような不思議な体験をしたのです。

ご紹介しましょう。

ひとつは、東松照明が撮影した桜です。20年以上前、20代だった僕がはじめて見た「桜」です。こびりついた(歴史的)「意味」を無化し、作家性を「無化」し、被写体のなまなましい生と死と性にスッと寄り添いながら、悠久の命の片鱗を垣間見せてくれる桜。

R0013541.JPG

もうひとつは、鈴木理策が撮影した桜です。ピントが浅くて、被写体のほんの一部を残して雲に隠されているような桜、見ることをやめて、多くをカメラに委ねてしまったような中心が空白のまま放置されたような写真です。鈴木は、ロードムービー的な手法を用いて写真集を構成しますが、頁をめくるにつれ、桜によって隠されていた桜が視覚化されていく過程も面白いです。

R0013540.JPG

この文章を読んでくださって、「みたことのない桜」を見てみたいと思われましたら、是非一度上記したふたりの作家の桜をご覧になられることをおすすめします。