武蔵野美術大学建築学科卒業制作における批評の試み1

2016年1月16日土曜日、武蔵野美術大学建築学科では、卒業制作作品の公開審査が行なわれました。これは、教授他非常勤講師を含む総勢30名を超える審査員により審議され、一日をかけて金賞、銀賞、銅賞、奨励賞の各賞を決定するものです。

僕も公開審査に参加したのですが、ここでは私見による作品講評をするのではなくて、学生の作品をテキストとして私自身の批評のアップデートを試みたいと考えています。

・・・・・・・・・

批評のアップデートとはなにか。

作品の審査講評という形式は、作品を見る側と見られる側、審査する側とされる側の関係が上位下位において決定されている。この構造的上下関係ゆえに、審査員の声は力を持ち得る。これは当然のことであり、事実審査員の方々は、建築、ランドスケープ、デザイン、アートといった領域で大変活躍されているし、作品を見極める「目」を有してもいる。さらには、ポストモダン状況が進行する世界、価値が相対化する状況での評価の多様性を抱合する点で、武蔵野美術大学のこうしたオープンな審査の過程は、同時代的な審査の方法を的確に反映したものといえるだろう。

 

同時に私個人は、審査をもって作品を評価するのとは別に、作品に対等に向き合い、これを批評する思考を持ち得たいという渇望がある。それは、講師と学生という関係性のフレームを外し、一個人として作品に没入し、こうした行為を通じて世界と接続したいという願望である。

価値が相対化する世界とは、価値の多様化とともにこれが個人のレベルで消費されていく状況を指す。私がひとりの審査員という立場で如何様に言葉をつくして学生に作品評価をしても、学生は聞きたいことだけを聞いて自身の世界を強固に武装するだけである。ゆえに、私は、とりあえず作家を宙づりにして、私と作品を直接接続してみたいと思うのだ。

 

さて、「私」が作品とダイレクトにつながることで、その上で「作品を批評することは可能か」という問いを私自身に課すことにする。

これは、価値が相対化されていく世界では批評のもつ力も当然減退する、ということに対するチャレンジでもある。作品に対する批評という上位概念のドロップを前提として、なおも批評は可能だろうか。

 

ここで『村上春樹は、むずかしい』加藤典洋著(岩波新書)をテキストに、批評の可能性について記述することにする。

著者は、近代文学を「否定」に見る。「否定」を否定し、「肯定」を肯定する文学の登場が1980年代以降にあったが、私はこれを日本的ポストモダン文学の台頭と位置づけることが出来ると思う。では現在、そうした作家、作品を差し置いて、なぜ村上春樹のみが突出した存在として世界的に浮上するに至るのか。

加藤は、村上が「肯定」の肯定において表出する「喪失」に踏み込み、この「喪失」が「過失」ではないのかという問いとともに、デタッチメントからアタッチメントへと移行していく過程を読み解く。さらに村上のアタッチメントとは、表層的な他者との接続を意味するのでなく、主体的内向世界を掘り下げることでぶつかる鉱脈、そこで何かと、例えば他者とつながるというのである。

詳細は、同書を読んでほしい。

こうした思考の変遷は、つまりポストポストモダン的ということが出来るように思う。あらゆるイデオロギーを解体し相対化していく世界、これによる私的快楽のみに価値が置かれた時、しかしそこに新たに生じる「喪失」に目を向け、これを前提としてそれでもなお、「新たな」他者性を獲得しようとすること。

その意味で『村上春樹は、むずかしい』は、1990年代以降、ゼロ年代、テン年代を更新するポストポストモダン的な批評であると私は思う。そして、否しかし、更新されながら常に批評の根幹に位置するものとは、「他者性」に他ならない。私たちは、主体に対する客体の気づき以来の「他者性」について、現代の目をもって読解しなければならないのである。

 

さて、批評の減退とは、価値が相対化されていくことによってその権威を失墜することに違いないが、と同時に、批評自体の古さに起因しているのではないか。近代的「目」でポストモダン状況が進行する世界を写し取ることは、不可能である。つまり批評が作品に遅れてしまうという状況が、至る所で生じているのではないか。

ゆえに私は、私の思考を世界の変容に即して更新させなければならない。それこそ私自身が課した批評のアップデートである。

・・・・・・・・

それでは、ここで言う世界の変容とはどのようなものであるか。簡単に言えば、前近代から近代、構造主義以降ということができるが、私は、1970年代以降について巨大ロボットアニメーションを用いて以下のように記述してみることにする。サブカルチャーほど時代性に素早く反応するものは他にない。

 

マジンガーZ』は、1972年から放映された永井豪原作のアニメーションである。主人公は、巨大ロボット「マジンガーZ」に搭乗し、地球侵略を目論むドクター・ヘル率いる敵のロボットと戦闘を繰り広げるというものだ。

ここで「マジンガーZ」は、神の化身(それは一神教的なものだが)として描かれている。主人公の青年兜甲児は、この巨大ロボットに搭乗することで、拡張された身体、大人の男の身体といってもいいが、を獲得する。

つまりこの作品は、「父系社会的自己実現」を表現しているといえるだろう。そしてそれは、前近代的な物語に違いない。

1979年『機動戦士ガンダム』の放映がはじまる。

『機動戦士ガンダム』は、独立を宣言したスペースコロニーと地球連邦軍の戦争を描いたものだが、戦闘は、主にモビルスーツと呼ばれるロボットによる。ここで特筆すべきは、モビルスーツの多くは量産化されており、パイロットは、次々と機種を乗り換えていく点にある。モビルスーツは、戦闘機や戦車と同様の兵器として描かれているのだ。つまりロボットを用いた近代戦争の再現である。

着目すべきは、身体の交換可能性にある。80年代は、短小軽薄、希薄な身体といわれた時代だ。到達点としてのバブルへ突き進む個人的な快楽主義の時代に、この作品は放映された。状況に応じて最良の身体に乗り換えることこそが価値なのだ。

バブル崩壊後の1995年、『新世紀エヴァンゲリオン』が放映開始される。

キリスト教の創世記(ジェネシス)を題材として、楽園を追われた人類が汎用人型決戦兵器「エヴァンゲリオン」を用いて13体の使途と呼ばれる怪物を倒した後、人類補完計画が完了するまでを描く物語である。人類補完計画とは、個が消滅し、人類がアメーバ状の単一の生命体に昇華する状態を完成とするものである。これは、価値の相対化が最大値化した後に訪れる一元化に帰する状態を指していると思われる。

主人公の碇シンジは、人類補完計画を遂行する父に認められたいと思う一方でこれを嫌悪し、母の化身であるエヴァンゲリオンに搭乗することで、心の安寧を保つ。つまりは子宮回帰が描かれており、この作品は、「母系社会的自己承認」の物語といえる。「母系社会的自己承認」とは「何をしてもいいのよ、ただし私の目の届く限りで」というような世界のフレーム化(アーキテクチュア)における、その、安全で心地よい世界の中で「私」が承認されることが最大値化されることを示している。

これが「セカイ系」のはじまりでもある。「セカイ系」とは、「私」を完全に承認してくれる人とのみつながると同時に、その人が世界との接続を一手に引き受けてくれるという世界観である。

その後宇野常寛は、『ゼロ年代の想像力』2008年(早川書房)で、ゼロ年代以降のサブカルチャーを読み解き、「引きこもっていても欲しいものは得られないので、サヴァイブする」という「サヴァイブ系」を提唱し、「セカイ系」の進化した「空気系」とともにゼロ年代を表象している。

「父系社会的自己実現」から身体の「交換可能性」を経て「母系社会的自己承認」へと移行する世界、テン年代とは、こうした移行がより押し進められて、あらゆるイデオロギーが相対化して「私」が個として自由を獲得し、同時に拠り所となる「居場所」を喪失して一方で引きこもり、他方で大きな価値(という幻想)に包摂されることを良しとし、あるいは「私」の所在の多様な個人的解釈へと散逸していく時代といえる。そしてそれは、「他者性」を見失った(つまりは喪失)「私」の座標の彷徨いなのである。そう、他者性を喪失し、結果「私」を基点にしてしか世界を捉えられない世界に私たちは、生きている。

・・・・・・・・

これから私が批評を試みる作品は、2015年度の武蔵野美術大学建築学科の卒業制作の幾らかである。以下の記述は作品好評ではないし、また公開審査を受けてその内容と結果に関係してもいない。私が論を構築するために必要と思われる作品を個人的に抽出し、テキストとするものである。

また、同記述は、作家の作品意図とは無関係に展開されることをはじめに断っておく。

・・・・・・・・

『「私」を置く、「私」を広げる』は、作者が共有スペースとして利用する建物の一室をトレースし、校舎の一角に出現させた作品である。

この作品は、タイトルが示すように「私」しかいない世界が描かれている。「私」にとって居心地のいい場所を段ボールとペンでトレースするという行為は、「私」を通過することで、居心地の良い世界を「私自身」に置き換える作業といえる。この部屋を成立させる物理的構造物としての角材は、内部において一切が隠されるが、外部からはぶっきらぼうに露呈されるのも、外の世界に興味を示さないこと、「私」世界のみが全体化されることのように思われる。

しかしこの部屋は未完成でもある。校舎のガラスのファサードに対しては無防備に開かれる。これは外部への開放を意味するだろうか。

否、逆である。外部から内部を覗き見できる仕掛けであり、見るものを内部へと誘うトラップであるのだから。

「私」は「私」の世界を押し広げはするが、外界と接続することを拒む、というよりはじめから外界など存在してもいない。「私」のテリトリーに足を踏み入れたものを呑み込んで、「私」の内部においてのみ接続しようとする仕掛けがこの作品である。他者を無き者にしようとすることは可能であろうか。しかし、『「私」を置く、「私」を広げる』は、少なくともそのような願望が噴出してもいる。

『Remodeling』は、作家が使用している生活を象徴する道具や家具などを透明なフィルムでラッピングした作品である。

Remodeling.JPG

これは、極めて客観的な行為だ。「私」の分身である日常生活品をフリーズさせることで「私」を一度切り離し、突き放して眺めようとするものだからである。

故にこの作品は、美しい白い壁の展示空間を執拗に構築することで、「私」の客体化を強化している。

それは、他者と接続するのが怖いから「私」を遠ざけるのではなく、接続の装置として分身を置く行為である。

鑑賞者は、フィルム越しに見え隠れする「私」の一部を通して作家とつながることを試みるも、しかし、それは極めて細い糸をたぐるようなものである。それでもなおこの作品は、他者との接続を繰り返し試みようとしているのだ。

その手法は、センシティブに過ぎるかもしれない。新海誠の『ほしのこえ』の、届くのに8年もかかるメールのように、絶望的なロマンティシズムに彩られているようにも思われ、それがこの作品の魅力でもあるのだろう。

『綻び紡ぎ、時を思う』は、完成されたゴブランの織物の緯糸をほどいたものを吊り下げ、パオのように内部空間を創造した作品である。緯糸は白か黒のため、これを抜き取るとカラフルな経糸が出現する。

糸1.JPG

ここにはふたつの特徴が見られる。ひとつは、織物で家のようなものをつくること、もうひとつはそのような構築を自らの手で崩していくことだ。

私は、ここで記述した三つの作品を、ある作家のひとつの作品と比較しながら思考している。その作品とは、1991年に佐賀町エキジビット・スペースに展示された『地上にひとつの場所を』(内藤礼)である。

この作品は、日本の1990年代のひとつの時代的特徴と考えられる「母系社会的自己承認」を最も早い時期にとらえたものではないだろうか。前述したように「母系社会的自己承認」とは、「何をしてもいいのよ、ただし私の目の届く限りで」というような世界のフレーム化(アーキテクチュア)における、その、安全で心地よい世界の中で「私」が承認されることが最大値化されることを指すものである。しかし、このアーキテクチュアの創造について、2016年現在の作家が、母系社会的な創造を継続しながらも、決定的に異なるアプローチを行なっているのではないか。

『地上にひとつの場所を』は、私の好むもので世界を満たすこと、つまり収集という行為において、アーキテクチュアをメタレベルで思考しているのに対し、ここに記述した三つの作品は、「私」という最も原始的な階層を基点とし、創造を通してもやはり「私」に帰属する、つまり、アーキテクチュアそのものが「私」性という狭い視野で構築されている。

『綻び紡ぎ、時を思う』もやはり「私」をはじめに置いた作品であることは間違いない。ゴブランの緯糸を一本ずつほどく作業は並大抵のことではない。そうした労働の痕跡で全体化された作品が、鑑賞者をその内部に誘うのである。

しかし、誘い込まれた内部は、空洞でしかない。何も無いのだ。つまりはこうだ、「私」性においてつくられたものは、アーキテクチュアのみである。世界のフレーム化という作業は、「あなた」のためにある。「あなた」を承認しましょうという意思とは、つまり「私」を承認するために自ら世界を築くことではなく、「他者性」を獲得するためにアーキテクチュアのみを構築することである。

この思考は、内藤礼の言う「母型」に近いが、『地上にひとつの場所を』が「私」を承認する行為、が結果として他者性をも包摂するのとは大きく異なる。

「あなた」を承認するために、「あなた」の自由を担保するために何もない場所をつくる、しかしそれは「私」以外何ものでもない膜によって満たされてもいる。アーキテクチュアとは、世界のフレーム化である。価値の相対化が進み、自由が規範化される状態をそのまま承認し、弱く儚い膜で「他者」をただ包摂する。緯糸を抜かれた膜は、それ自身を溶解する途上にも見える。しかし、「私」は「私」性を手放しもしない。そのような行為自体が「私」自身である。

この「他者」を承認するために、包摂する行為のみを「私」として自立させる作業、そうした世界との接続とは、つまり「建築」ではないだろうか。

糸2.JPG

・・・・・・・・

ここまでずいぶん長くなってしまいましたが、あと2作品ほど、取り上げたいものがあります。

他者性を獲得する方法としての作品の存在について、続きは次回に。