古谷経衡著『「意識高い系」の研究』(文春新書)読後録

古谷経衡著『「意識高い系」の研究』(文春新書)は、その名の通り「意識高い系」という人たちについて書かれたものです。

「意識高い系」という多分、かなり迷惑な人たちをバッサバッサ斬り倒していく文章は力強く、魅力的なものであると同時に、なんとなく読後のモヤモヤも拭えなかったので、ブログに書いて整理してみようかしら、などと思ったわけです。

「意識高い系」という言葉が概念化して定着したのは、『「意識高い系」という病〜ソーシャル時代にはびこるバカヤロー』(ベスト新書)という常見陽平氏の著作によるところが大きいのですが、本書はこの「意識高い系」をより体系化しているんですね。

さて、ではそもそも「意識高い系」とは、どういう人たちなのか、本書では次のように書かれています。

・承認経験が乏しかった過去により、必要以上に他者へのアピールを欲し、不当に自己評価が高い。

・「高次の大義」を掲げ、その大義よりもそこにコミットしている「自分」が重要。

ああ、まあこういう人たちは、僕の周りにもいるわけです。「著名人がクライアント」とか「誰それのワークショップに参加した」とか。聞いてるこっちが疲れちゃうんですが、注意深く聞いてみると全てが「著名人をクライアントに持つ自分」、「著名人のワークショップに参加した自分」という自分アピールなんですね。著名なのはあなたじゃないという。

本書は、大学デビューとか自撮りとか社会派サークルにコミットとか、靖国コスプレーヤーやら愛国女子やらノマドワーカーやらキラキラ女子やら、とにかく表層を取り繕っただけの、規範がないのに前のめりに出てくる人たちを一刀両断していて、痛快です。

さて、この「意識高い系」ですが、本書では「リア充」と比較することで定義づけしています。「リア充」といえば、現実の生活が充実している人っていう印象だと思いますし、僕もそう思っていますが、著者はこの言葉を「土地に土着し、その土地は両親などから相続したもので、スクールカーストにおいて第一階級に属していた」と再定義しています。これとの比較によると「意識高い系」は、「土着する土地を持たず、スクールカーストにおいては第二階級に属していた」ということになるんだそうです。

そしてこの部分が、僕がこの本のモヤモヤする部分なんですが、「言葉を、その言葉が広く流通している意味と異なるものとして再定義するならば、その旨をはじめに記すべきだし、もしくは特定の意味をなす言葉を別につくるほうがいいんじゃないかな」なんて思ってしまうわけです。さらに「土着する土地を持たず、スクールカーストにおいては第二階級に属していた」人間がみんな「意識高い系」になるわけではないはずで、ではその違いは何か、その領域に踏み込んでしまうというのは、どうしてなのかっていうことを探って欲しかったと思います。

もちろんこの本にも「意識高い系」になるかならないか、その境界を分けるヒントが隠されてもいるわけですが。それは汗水垂らして努力できるかどうか、です。これは、僕はとても重要なワードだと思います。

ここからは、持論を展開していきますが、まず「意識高い系」になってしまう素養としては、一つに「物理的、精神的規範がない」ということ、もう一つに「過去の人生において承認欲求が満たされてこなかった」ということになるんじゃないかと思っています。

もともと規範があったり、承認されてきた経験を持つ人と違って、「意識高い系」は、過去に満たされてこなかった。ゆえに、承認への欲求が尋常でない。けれど、弛まぬ努力を続けることで自己実現を果たし、それによって他者から承認されるのは、気の遠くなるような自己研鑚と時間を要することになります。それは耐えられない。もっと手軽に早く、と。

なぜ僕がこの本に引っかかりをもってわざわざブログにまでしようかと思ったのかといえば、それは、僕が美大出身の建築家で、美大は「意識高い系」予備軍の吹き溜まりだからです。僕が通っていた大学には付属校がなく、大学入学時にみんな揃って同じスタートラインにつきます。つまり誰も過去の自分を知らず、誰もが大学で規範化された場所を持たない状況でデビューを果たせるからです。偏差値偏重の価値規範からも離れることができますし。美術大学は、創造性を養成するとまではいかなくてもそこに価値を置いているので、やり方によっては手っ取り早く居場所をつくることができますから。もちろん建築学科であれば、課題が出されて都度評価されていく中で、淘汰されてもいくわけですが、そこでこぼれ落ちた人たちにとっても、アートやデザインやその界隈で自分が承認される場所を見つけることが比較的容易に叶うということもあります。

それで40歳も半ばを過ぎて僕がひしひしと感じることは、承認されるかどうかは自分が決めることじゃないし、実はそこはあまり重要じゃないなと。僕には僕が目指すべき建築設計や建築写真の青写真があって、そこに近づくために、到達したいためにやっぱり、努力し続けるしかないんだと思うんです。

今ってポストモダン状況が進行していって、価値が相対化されて、一方で個人が自由を獲得しやすくもありますが、他方で自分の立ち位置が希薄になってもしまいます。同時にSNS環境が整備されて、「自分」発信が容易にもなっています。インスタントにコンビニエンスに自己承認欲求を満たす環境下で僕たちはいきているわけです。

でも他者から承認されるより前にやらなくちゃいけないことがやっぱりあるし、それは自分を俯瞰しながら向き合い、高めていくことを継続するに尽きるんじゃないかなと思うのです。僕の周りには、素晴らしい作品を設計されている建築家がたくさんいて、素晴らしい写真を撮られている写真家もたくさんいる。だから僕も、これが僕の設計です、僕の写真ですっていう作品を残したいと思い続けて、そのために繰り返し自分を奮い立たせて目の前のもの、ことに真摯に且つ全力でぶつかっていこうと思っているんです。