審査員の顔がコワイ

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こんにちは。

少し前のことになりますが、2018年1月18日(木)に、東京造形大学室内建築専攻領域の修士修了設計の審査に呼んでいただきました。

建築系の二つの研究室の学生の作品を観てまわったのですが、それぞれの研究室の教授が主査、副査を受け持ち、僕は外部審査員という枠になるのかな、コンパクトな審査会でそれゆえじっくりと学生作品に向き合える場でもありました。

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修了設計ということもあって僕も幾分緊張していたのですが、審査は粛々と進められ、無事役目を終えることができました。

ところで、審査中の審査員の顔ってコワイなあと思うことがあって、どうしてなんだろうなんてふとそんなことを思ったので、今日は「審査員の顔がコワイ」ことについて書こうと思います。

審査員の顔がコワイのは、もちろん審査に真剣に取り組んでいるからなんでしょうけど、もう少し掘り下げて考えてみると、作品に集中したいからなのかなあなんて思います。作品や作家の一言一句に耳を傾けて、聞き漏らしが無いようにしていると、自然と顔が怖くなってきます。

それから審査員として威圧的に振る舞うため、というのもあるでしょう。審査される側は、審査内容をある程度無条件に受け入れなければいけない状況、まあそういう階層構造があってはじめて成立するわけで、近代的なツリー構造が無条件に規範化されていれば審査員も好き勝手に振舞ってもいいのでしょうけど、価値が相対化されいく状況なんかでは審査員の権威を維持しなくてはいけないわけです。

これと似て非なるものとして、偉く見られたいというものもあります。審査員自身が学生に舐められたくないとか、リスペクトされたいとか。これは、審査の権威的階層の一端を担いもしますが、でもまあ審査員自身が、関心を作品に向けるというよりは、自分は凄いんだぞっていうことをひけらかしたい側面の方が大きいようにも思います。よく観察していると、この手の審査員って大したコメントも言ってなかったりします。なぜなら意識が自分に向いているからです。

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翻って僕はどうなのかと考えてみると、やっぱりコワイ顔をしているように思います。僕の場合は、最初に申し上げた「集中したい」に近いように思うのですが、もう少し言うと「余計な情報を排除したい」が大きいでしょうか。審査会というのは、なんだかんだ言っても人がやることなので、お気に入りの学生を推したいとか、しようと思えば作品評価とは関係ない部分で審査をコントロール出来るのも事実なわけで、でもやはり審査員である以上そういう思惑を排除しなければならないわけです。

学生の作品を審査するといっても、実際は作品以外に多くの情報が入ってきます。学生の性別や容姿、服装、声色やトーン、喋り方のくせとか発表の上手い下手などなど。僕は、作品自体が審査の対象だと考えていますし、作品にプレゼンテーションも含まれていると思っているので、もちろん学生の発表における説明や補足には耳を傾けますが、ここで申し上げたようなことは、邪魔なものでしかないのです。こうした余剰の情報はできれば一切排除したいので、感情の起伏によって審査を邪魔しないようにするためにも、務めて冷静の鎧を見にまとう必要があるのです。

審査される側にしてみれば、審査員の事情なんて知ったこっちゃないので、自身の作品発表に集中してもらえれば、僕はそれでいいと思っています。ただ、多くの審査員は、それだけ真摯に作品に対峙しようと努力してもいますし、その意味で審査員から発せられた言葉は、決して軽くないとも思います。良い悪いの評価に対して一喜一憂するのではなくて、作品を他者がどう読むかに興味を持つことも大事にしていただければ、幸いに思います。

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