不定期掲載「超私的美術論考」2-戸谷成雄

こんにちは。

不定期掲載「超私的美術論考」の2回目は、東京六本木のシュウゴアーツで2019年10月19日(土)まで開催している『戸谷成雄「視線体」』について考えます。

戸谷成雄さんは、昨年長年勤められた武蔵野美術大学を退官されましたが、若くから日本を代表する彫刻家の一人であると同時に、西欧形而上学的な彫刻の成り立ちに対して異を唱えてきたその独自の彫刻観において、孤高の彫刻家でもあるように思います。

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僕の戸谷さんとの出会いは、僕が大学1年生の時に「基礎デザイン」という短期の授業があり、その時に授業を持っていただいたのが最初です。その時の課題は、ミシェル・フーコーの「言葉と物」をテキストにしてベラスケスの「ラス・メニーナス」(宮廷の侍女たち)を読解し、それをガイドに本を作りなさいというものでした。

戸谷成雄という彫刻家は、多弁です。それは、彫刻に対して実際に多くを喋るとともに、彫刻にも多くを語らせる彫刻家であるという意味です。しかし、戸谷さんご自身がおしゃべりな方というわけではありません。彫刻へ至るプロセスが、極めてロジカルであるとともに、実体としての彫刻自体がまた多くを語るといえばよいでしょうか。

今回の個展のリーフレットでも「世界はそれ自身完結しているにもかかわらず、彫刻という余分をつけ足すのはなぜか。」「何もないところに、確かに在ると感ずる意識こそ人間にものを作らせたのではないか。」「見えなさとしての彫刻を再び見える世界として存在させるにはどうすればよいか。」という戸谷さんの問いが記されていますが、それらは、戸谷さんご自身の彫刻へのまなざしであるとともに、根源的な人間の生への問いでもあると思います。

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ではそうした「戸谷さんご自身の彫刻へのまなざし」とは何か。

それは「ラス・メニーナス」や「見えなさとしての彫刻を再び見える世界として存在させる」が既に語っているように、僕は「鏡像的な反転における不可視な本質的実体の表出」と捉えています。

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戸谷さんが長年製作されてきた「森」という彫刻のシリーズがあります。これは、太い杉の角柱をチェーンソーで削り出し、一本の樹木のように見立てたものを直立した彫刻ですが、これが9本とか16本グリッド状に並べられたものです。僕は学生時代、この彫刻を銀座のギャラリーで初めて見たのですが、驚いたのはこの彫刻が1本から販売されていたことでした。つまり、1本が一つの完結した作品であるということですが、同時にグリッド状に並べられた総体も一つの作品として存在しているのです。さらには、これらの柱によって切り取られた空間(といえばよいでしょうか)の方に僕の作品へのまなざしがシフトしていくというものでもありました。

「鏡像的な反転における不可視な本質的実体の表出」というのは、実体としてある「もの」の反復とこれが「ある」ことによる(不可視の)空間への反転が、「彫刻」の全体像を創造しているということだと思います。こうした彫刻の考え方は、西欧的なオブジェクトの自立性を既に超克しているとともに、非常にプリミティブに僕たちの原始的な生へと帰結するのではないでしょうか。

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さて、今回の個展「視線体」ですが、ギャラリーの入り口を入るとまず荒々しくチェーンソーで刻まれた9体の杉の木彫がグリッドに並べられています。これらは一見すると、切り出したばかりの石の塊のようで、「森」シリーズのような人為的な作為が最小化されています。奥の部屋には、中央にやはりチェーンソーで削られた立方体の杉のキューブと、それからギャラリーの壁面に、線状に、そしてその線が無数に交差しながら一見ランダムに木片が張り付けられています。

初めに見たとき、僕はこの作品を「森」シリーズを推し進めた結果、非常に言語的になってしまい、あまりにおしゃべりな作品に仕上がってしまっているのではないかと困惑しました。つまりはこの作品は、こういうことです。中央に置かれた立方体の杉のキューブ、これをチェーンソーで削った木片が壁面に並べられていて、これはネガポジの関係にあります。更に、チェーンソーの一閃は、直線を描き、これもネガポジ反転の関係で、壁面の木片を直線上に並べます。また、杉の木の塊(ポジ)を削った際に削り取られた木片(ネガ)(少なくともそう見立てられている)と、ギャラリー入口の9体の木彫は、(意味上の)相似形をなしてもいるのです。

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しかし、時間を置くに連れ、この作品に対する僕の感じ方は変わっていきました。キーワードは「イメージ」です。この無限ループするようなネガポジの反転とは、つまりチェーンソーの一閃、これを視線といってもいいと思いますが、この無数の線によって包摂され、満たされた空虚、空間の方が最終的にポジへと反転してしまう仕掛けなのだろうと。そのために「仕掛け」として機能する杉の木の塊は、作為を最小化するに及んだのではないかと。

僕がおしゃべりだと感じたものは、「仕掛け」の方に語らせたことであって、こうした操作、行為によって立ち現れる「本当の」彫刻は、別のところに存在するのだと解釈したんですね。それは、最終的には、彫刻の持つ彫刻性それ自身を問う行為でもあるのだなと、非常に納得した次第です。

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でも視線というのは対象に向けられるものであって、空間認識についても線状の目の動きによるものというよりは、より包括的な捉え方をするんじゃないのかな、などと意地悪なことを思ったりもしたのですが、これは作品世界として視線をそのように捉えているからと説明できると思います。つまり魔女の住む世界を描いた物語の作品世界に触れる時、そもそも僕たちは、魔女の住む世界を否定しないということです。この作品では、チェーンソーによる一閃こそが、彫刻家が彫刻を彫刻足らしめる行為の規範であり、そうした思考と創作によって作られた認知的空間こそがこの作品世界なのだと理解するべきでしょう。

ここまで一気に書き上げてしまいました。僕はこうした作品を通じて「はじめて」知ることをこよなく愛しています。そしてそれは、僕がそうだという思い込みによって作り上げられた世界に対する認知を壊してくれもします。また一つ感動をいただけたことを嬉しく思うとともに、こうした作品を直に観ることができましたことに感謝申し上げます。

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