不定期掲載「超私的美術論考」1-武田鉄平

こんにちは。

芸術の秋です。

僕も思うところがあって、というほどのこともなく単に頭の中を整理したいと思って、ここのところ時間を見つけては気になる美術展を一人で回っています。

一日で4から5つ程度の美術館、ギャラリーを回ってみているのですが、短期間で見るものの絶対数が上がってくると、自分なりに思考も研ぎ澄まされてきて、それならば極めて個人的ではあるけれど、作品を見て感じたこと、思ったことを吐き出してみようと思うに至りました。

というわけで、タイトルの通り超私的に美術作品を論じてみようと思います。

第一回は、武田鉄平さんの描かれた絵画について。2019年の個展「PAINTING OF PAINTING」(描くを、描く)をテキストに論じます。

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武田鉄平さんを知ったのは、僕が尊敬する建築家のTさんが確か2018年に彼の作品を購入されてSNSにUPされていたのを拝見してだと記憶しています。

この奇妙なポートレートを描く画家は、東京の美術大学で視覚伝達デザインを専攻後デザイナー事務所勤務を経て家業を継ぐため故郷の東北、山形に戻り、そこで現在の絵画創作を始めます。実に37歳まで世にこれらの作品を発表したことがなかったという経歴をみても興味をくすぐられます。しかし、ポストモダン状況の進行するこの時代、作家の後退と作品の自律、読者が作品を作品それ自体として読んでよいというバルト的テクスト論を用いるならば、僕もやはり作品それ自体に向き合うべきでしょう。

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武田鉄平さんの描く絵は、肖像画です、たぶん。最初に見た印象は、人物を描いているのだろうというものでした。輪郭として人間の胸より上が描かれているように見え、顔があり、頭髪があり、首があり衣服を着ている、そのようにしか見えないのですが、しかし画布に絵の具を直接落としてこれをナイフで恣意的に塗りたくったその痕跡がフリーズしたような絵は、そのナイフ跡をなぞるほどに、人物から遠のいていきます。視点を俯瞰に戻すとやはり人物に見えるのですが、その顔は誰のものでもなく、つまりは非特定性ゆえの匿名性に満ちていて、抽象度が上がることによる観るものの共感性を誘うものでもあります。

この抽象度を上げることによる共感性の誘発ということは、最近僕はよい作品に共通していると思っているのですが、これについては別の機会に書くとして、とにかくこれが氏の作品の一つ目のトリックです。見えているものと描かれているものにズレが生じている、人物を描くということを別の階層で別の描き方で描いているという点で。

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それでは2つ目のトリックとはなんでしょう。

それは、絵に近寄ってみるとわかるのですが、これらはチューブから絵の具を直接画布に落としてナイフで走らせてなんかいなくて、遠目にそのように見えるように絵筆で詳細に、繊細に描き込まれたものだということです。

つまりこうです。鑑賞者が描かれていると思って見ているものが、全く異なる描かれ方でしかも二重に段階を経て、階層を変えて描かれているのです。ゆえに「描くを、描く」ことになるんですね。

特筆すべきは、絵画を絵画たらしめている歴史や技法、あるいはレギュレーション、作品とそれを見るという行為の内部において、絵画自体を問い直している点です。

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以前に僕は現代アートがマルセル・デュシャンの呪縛から逃れられないことについて書いたことがあります。規範化されているアートのフレームの外側にあるものを内部にスライドさせながら、発想の逆転を用いてアートシーンに鎮座してしまうようなレトリックについて。僕は、こうした思考のゲームのような現代アートの幾らかの状況に辟易していますが、武田鉄平さんの作品は、作品を「絵画」に内在化しながら内部から「絵画」そのものに揺さぶりをかける行為である点で非常に面白く、絵画の地平を切り開くようにも思われるのです。

さて、その武田鉄平さんの作品ですが、今年の作品も即日完売、昨年の倍の値が付いているそうです。僕が思うに、来年はさらに倍になるかと思います。投資目的のコレクターの方は、当分こぞって購入するような状況が続くんでしょうね。まあなかなか手に入らないんでしょうけど、作家の懐があたたかくなるのは、よいことですね。

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