抽象度と共感についての雑記

こんにちは。

ここ最近、幾らかの美術展やアーティストトークを拝見して、抽象度という言葉を聞くようになりました。この抽象度という言葉、最近書かれた本を読んでも度々出てくる言葉ですが、ちょっと前まではこうした言葉を耳にすることがなかったと思います。

ここでは、抽象度を上げるということが、アートや写真、建築などでどのように作用し、どんな効果をもたらすのかということについて、ちょっと考えてみたいと思います。

ただ、僕の脳内でこれについてまとまっているわけではなく、しかし非常に重要に思われもするので、散らかった思考の破片を吐き出しながら、散らかったままに論考してみることにします。

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抽象度という言葉は、もともと分析哲学の用語らしいですが、例えばZOZOタウンでデニムパンツを買おうと思った時、カテゴリーから探そうとしてパンツ→デニムパンツと検索することができます。これは階層構造になっていて、具体的な「デニムパンツ」に対して、「パンツ」はデニムパンツもチノパンツもスラックスも包括している代わりに具体的な情報量は小さくなります。さらに「パンツ」や「アウター」や「トップス」を包括するものとして「服」があるとすれば、「デニムパンツ」→「パンツ」→「服」という流れで「抽象度が高」くなると言えるわけです。

つまり抽象度が高い状態というのは、抽象的な上位階層が具体的な下位階層を包括しているということで、同時に抽象的であるために情報量が少なくなるということにもなります。

この言葉、最近「抽象度を上げて議論しましょう」というように、ものごとの本質を見極めたり、全体をフレーム化したりするのに使用されます。

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先日、東京都写真美術館で開催されている『イメージの洞窟 意識の源を探る』(2019年10月1日〜11月24日)という写真展で、北野謙さんとオサム・ジェームス・中川さんのアーティストトークに参加しました。その中で興味深かったお話のひとつに「共感性を得るためには抽象度を上げる」というのがありました。僕はこのお話を写真家の川内倫子さんの作品を思い浮かべながら聞いていたので、彼女の写真をテキストにして、このことについて説明してみたいと思います。

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彼女の写真は、花だったり花火だったり、風景や日常の一コマを撮影したもの(のように思われる)なんですが、「いつ」「誰が」「どこで」「どのように」「何をした」という情報が極めて少ないんです。具体的な情報が多いとその作品は個人的な記録になってしまいますが、抽象度を高めているために、誰もがどこかで体験した記憶や感情の揺さぶりを呼び起こしやすくするのだと考えられます。抽象度を上げると情報量が少なくなるため、抽象的なイメージを観賞者の記憶に刷り込みやすくなる、つまりは共感性が高まるということでしょうか。

それでは、抽象度を上げれば必ず共感性が高まるのでしょうか。

例えば、写真家が写真技術を使用して何か作品を創作したとして、それが非常に抽象的な作品であったとしても一般的に知られている「写真」のイメージから程遠かった場合、そうした「写真」を期待していた観賞者は、その作品に共感することができるでしょうか。先のZOZOタウンでいえば、「服」の抽象度を上げていった結果、「糸」というカテゴリーから僕たちは「デニムパンツ」をイメージできないのではないかということです。

僕たちは、何かに対して共感するイメージの形式化があって、それを逸脱してしまうと共感の度合いは逆に下がってしまうということがあるように思うのです。

しかし作家が創造するものの全てが鑑賞者の共感を目的化しているわけではないですし、また共感のポイントは作品自体にあるだけではなく、それに付帯するもの、例えば思想や政治性、歴史観などにも纏うものでもあるため、このことだけを拾い上げて良いとか悪いとかというものでもないはずです。ただ、抽象度を高めるということと共感性には、イメージのバランスのようなものがあるようには思います。

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さて、それでは建築、特に戸建住宅なんかの場合、抽象度を上げることによる共感性の取得、あるいは新しい価値の獲得はあり得るんでしょうか。

これについて、僕は非常に難しいと思っています。何故ならば家というのは、非常に具体的なものだからです。もちろん家の形や色、素材やディティールや設計自体を工夫することは可能ですが、そうした抽象化は、すぐに「家」の形式化したイメージにカテゴライズされてしまいます。というのは、家が持つ法規や構造や設備やその他諸々の機能や寸法が、具体的であると同時に家を家として規範化してもいるからです。

しかし、個人の住宅に共感性を増大させることもないようにも思います。何故ならば住宅とは、個人的なものでもありますし、また設計による様々なアイディアは、多様な建築のイメージの形式化にも貢献すると思うからです。

ただ、にも関わらず、僕なんかは建築設計をしている身として、それでもアート作品にみるような抽象度を上げる設計というのが建築でもできるのではないか、またそうしたものを設計してみたいと思ってしまうんですね。

そんなことを考えながら妹島和世さんや西沢立衛さんの設計された住宅を拝見すると、僕のイメージしている建築設計における抽象度を上げるということの解答の一つを見せられているような気がします。それはどういうことかというと、住まい手がどのように住むのか想像ができないプランを作られているという点です。住宅というのは、それこそ抽象度を上げるとどのような設計をしてもLDK +個室という形式になってしまいそこでの生活自体も形式化されてしまうのですが、お二方の設計は、確かにトポロジカルにはLDKに回収されているんだと思いますが、それでもそれを超えていく要素を内包しているんですね。プランから生活を読み取れないといいますか。

お二人の設計については、今後機会があれば書くこともあるかもしれませんが、僕が非常に彼らの設計でアイディアをいただいたのは、住まい手個人の非常に具体的な生活情報にコミットしていった結果、抽象度の高いプランが立ち上がるというものです。これは非常に面白くて、抽象度を上げるということが階層的な上位、下位の関係に縛られないことを意味しているように思うのです。

もしかしたら僕は全く見当違いのことを言っているかもしれません(特に建築のくだり、内容もふわっとしてますが)。その可能性も否定できないままここに記しているわけですが、今後僕が建築にかかわらず何かしらのかたちで作品創作をするようなことがあるならば、上記したことが僕の創作の核になるような気さえしています。それさえも今現時点での僕の思い込みかもしれないのですが、鉄は熱いうちに打てということもありますから、ここに記しておくことにします。

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