「僕たちが生きるこの世界」という場合の「世界」という言葉について、僕はいつも抽象度を上げてイメージします。ミシェル・フーコーが『言葉と物』で提示した「エピステーメー」に近いかもしれませんが、言葉と物が関係を結ぶフレームのようなもの。しかし、時代によってこのフレーム自体が変異してもいきます。
2001年に講談社現代新書から出版された東浩紀著『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』は、オタクの嗜好、行動様態を用いてゼロ年代の「僕たちが生きるこの世界」をフレーム化しています。
僕が本書で重要に思った点は次のようなことです。
『ポストモダン的特徴である「シミュラークル(オリジナルなきコピー=オリジナル、例えば携帯電話、拡大解釈して二次創作物)の水準」が、近代的ツリーモデルから取って替わった「データベースモデルの水準」の裏打ちがあって機能しているということ。』
つまりシミュラークルとデータベースの二層構造が、「僕たちが生きるこの世界」をフレーム化しているということです。
これを前提として、データベース消費でいうところの、二次創作にみられるシミュラークルな状況において、僕は、ある部分ではオリジナルを弱体化させるのではなく、強化していく、と考えています。建築であれば例えばレム・コールハースが80〜90年代に楕円を使った。このアイテムは、建築界でさまざまなレベルで消費され拡散していきます。こうしたことが結果オリジナルを強化しているのではないか。
そうでなければ想像力は報われません。
繰り返しますが、『「シミュラークルの水準」が、「データベースモデルの水準」の裏打ちがあって機能している』とは、今後これを論じていくための重要なポイントです。
それは、例えばAKB48、初音ミク、建築家の一部あるいは彼らのつくる建築またはその部分.etcといった「二次創作的拡散を生むおおもとの創意」という意味でのポストモダン状況下の想像力について論じるための規範となり得るからです。
またそれは、現状のハウスメーカーの住宅や郊外の生成といったシミュラークルの水準で表層化される事実とこれを超えていく想像力について考えていく契機にもなるからです。
今後こうした事柄について実存のレベルでいろいろと論じることができるような気がしています。
シミュラークル、ツリーモデル、データベースといった言語的意味と本書の解説について、あるいは上記したようなそこから溢れ出る想像力について、少しずつでも書いていくつもりですが、今日はここまで。