『日本ではその(大きな物語の)弱体化は、高度経済成長と「政治の季節」が終わり、石油ショックと連合赤軍事件を経た七〇年代に加速した。』
(以上『動物化するポストモダン』より引用)
東浩紀は、「単一の大きな社会的規範が有効性を失い、無数の小さな規範の林立に取って替わられるというその過程」を上記し、また思想史レベルでもこの過程について触れています。
抽象度が高いので別のテキストも参照します。
宮台真司著『日本の難点(幻冬舎新書 2009)』から。
『実は、どんな社会も、社会がその形をとるべき必然性はありません。つまりは恣意的で、その意味では「底が抜けて」います。しかし、従来は恣意性を乗り越える、あるいはやり過ごす働きを、多くの社会が内蔵してきました。それが壊れてしまったのです。
ー中略ー
一九六〇年代半ばまでに、人文知の領域の学者たちの間で"どんな社会も「底が抜けて」いること"が明らかになりました。それから五年ないし一〇年遅れて、普通の人たちの間で"社会の「底が抜けて」いること"が理解されました。』
宮台は続けて、誰もが「底が抜けて」いることに気づいてしまった理由は、「郊外化:図式的に言えば、<システム>(コンビニ・ファミレス的なもの)が<生活世界>(地元商店的なもの)を全面的に席巻していく動き」
だと言っています。
さらに続けます。
『郊外化は、一九六〇年代の団地化(五〇年代半ばから七〇年代前半)と、八〇年代のニュータウン化(七〇年代後半から現在まで)の二段階に分けられます。
ー中略ー
団地化=専業主婦化とは「地域の空洞化×家族への内閉化」を意味します。ニュータウン化=コンビニ化とは「家族の空洞化×市場化&行政化」を意味します。こうした「二段階の郊外化」は、<システム>全域化による<生活世界>空洞化の、日本的な展開を示しています。
こうした展開に日米関係の変質が絡みます。
ー中略ー
米国資本に市場を開くことを目指した政策的変更が行われます。
ー中略ー
ちょうど二〇年前、日米構造協議時代の米国は、製造業からの離脱を図る時期でした。そうした米国からの要求に応じるがままにすれば、日本の<生活世界>の、相互扶助で調達されていた便益が、流通業という<システム>にすっかり置き換えられてしまうことも、予想できたことでした。
<システム>の全域化によって<生活世界>が空洞化すれば、個人は全くの剥き出しで<システム>に晒されるようになります。「善意&自発性」優位のコミュニケーション領域から「役割&マニュアル」優位のコミュニケーション領域へと、すっかり押し出されてしまうことになります。
物理的空間に拘束された人間関係は意味をなくし、多様に開かれた情報空間を代わりに頼りにするようになります。それまでの家族や地域や職場の関係から何かを調達するよりも、インターネットと宅配サービスで何もかも調達するようになります。その結果、何が起こるのでしょう。
答えは簡単。社会が包摂性を失うのです。』
もう一人、小熊英二を紹介しておきたいのですが、長くなりましたので次回以降で。