『新世紀エヴァンゲリオン』をこう読む

『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996)日本のTVアニメ。原作はGAINAX。監督は庵野秀明。

『新世紀エヴァンゲリオン』についての論考は、東浩紀、大澤真幸、宇野常寛等によって書かれ、数多く存在します。

詳しくは、これについて書かれたいくつかの著書を本文の最後にご紹介しますので、お読みいただくことをお勧めします。本文については、日本のポストモダン論、ゼロ年代以降の想像力を語る上でさけて通れないとの考えから記すに至っています。

まず、この作品の放映がはじまったのが1995年。オウムサリン事件、阪神淡路大地震のあった年です。見田宗介は、戦後から45年を三等分してそれぞれの15年を「理想の時代」「夢の時代」「虚構の時代」に区分しました。それから5年、1995年以降の時代を大澤真幸は「不可能性の時代」と位置づけています。

この作品は、『創世記』に記された「知恵の実を食べて楽園を追放された」人類が、同じく楽園に植えられた「生命の樹」の実を食べることで、人類を超える存在へと昇華しようという物語です。そのために人類は、人類と種を異にする生命である、使徒と呼ばれる怪物たちと戦うことになります。しかしこの人類の目的については、計画を遂行する秘密結社によって秘匿され、汎用人型決戦兵器人造人間エヴァンゲリオン(以下エヴァ)に搭乗して使徒と戦うパイロット達に、その真実は知らされません。

つまり、エヴァのパイロットであり主人公の少年「碇シンジ」は、いったい何と戦っているのか分からないまま襲来する使徒と戦わなくてはなりません。通常ロボットアニメは、主人公の少年が拡張された身体としてのロボットに搭乗し、敵を倒して「自己実現」(男への成長)を果たすのですが、ここでシンジは、この過程を拒否して現実から逃げ、引きこもっていきます。

これは、大人あるいは男への成長の拒否を意味します。少年から青年への移行期ともいえるシンジの14歳という年齢も意図的な設定によるものであると思われます。

成長を拒否したシンジを癒すのは、母なるものからの包容、一体化の体験です。

シンジが搭乗するエヴァは、リリス(人類を生み出した生命の起源=母性の象徴)をコピーしてつくられています。またシンジの母は、開発途中の事故でエヴァに取り込まれています。

すなわちパイロットがエヴァに搭乗するというのは、母体回帰を意味します。

パイロット候補生が全て、母のいない少年少女であるということ、エヴァはパイロットとのシンクロ率を高めることで作動すること、パイロットが搭乗するエントリープラグ内は羊水を連想するL.C.Lという液体に満たされることなど、このことを強化しています。

これに対して父性について考えてみると、象徴的な人物としてシンジの父と17番目の使徒である「渚カヲル」をあげることができます。父はシンジに対して厳格で冷徹な態度をとります。また妻と妻を取り込んだエヴァ、リリスの魂の入れ物であり妻を模倣した像でもある「綾波レイ」にとらわれてもいます。父であることを拒否する一方で、男であろうとするようにも見えますが、最終的にエヴァにもレイにも拒絶されてしまいます。

カヲルは、アダム(使途を生み出した生命の起源)の魂の入れ物であり、父性の象徴として描かれます。シンジはカヲルに心を開き、包容されることを望みますが、カヲルは物語終盤にシンジの手で葬られます。これは、少年が父を乗り越えたのではなく、父なるものが喪失してしまったと考える方が素直な解釈と言えそうです。

つまりこの物語は、自己実現とそのための父性的規範が失効して、母性的自己承認によって全体化した世界=普遍世界が描かれているといえます。自己実現を目指して外に出て行くことは、もはや許されません。普遍世界は、そもそも外の世界を持たないのですから。その代わり、母の目の届く範囲であれば、何をしてもかまいません。そこには自由があるでしょう。

僕は、このような世界観について、いつも次のようなことをイメージします。

「僕たちは鳥かごの中の鳥です。けれどそのかごが、もしも森よりも大きかったとして、僕たちは、かごを意識するでしょうか。そのような状況を不自由といえるでしょうか。」

これに似たことを佐々木敦が『ニッポンの思想』(2009 講談社現代新書)で浅田彰からつないでの東浩紀評、ポストモダン論として書いていますので、ご紹介しておきます。

新世紀エヴァンゲリオンについては、東浩紀著『動物化するポストモダン』(2001 講談社現代新書)ではデータベース消費のモデルとして、大澤真幸著『不可能性の時代』(2008 岩波新書)では、オタクという謎を謎として提起する上で、宇野常寛著『ゼロ年代の想像力』(2008 早川書房)では、ゼロ年代以降の想像力であるセカイ系、サヴァイブ系へつながる系譜のはじまりとして論じられています。


今後上記4冊については、エヴァ論とは関係なく、『動物化するポストモダン』含め、書評として再度取り上げます。