ふたつ前の日記『ではなぜ「大きな物語」は機能不全を起こしたのか」で、1970年代から現在までの社会状況の変異について触れました。
書いていて気づいたのですが、この変異の過程を1970年以降のTVドラマにプロットして通史をつくると、よく理解できると思います。
こんな感じです。
- 『時間ですよ』(1970)『寺内貫太郎一家』(1974).etc ザ・ホームドラマ
- 『岸辺のアルバム』(1977)家族が崩壊して家が多摩川に流されるドラマ
- 『北の国から』(1981)家族が北海道でサヴァイブするドラマ
- 『ふぞろいの林檎たち』(1983)大学生がもやもやするドラマ
- 『家族ゲーム』(1983)暴力家庭教師のドラマ
- 『金曜日の妻たちへ』(1983-1985)郊外で不倫を奨励するドラマ
- 『毎度おさわがせします』(1985-1987)中学生がもんもんとするドラマ
- 『男女7人夏物語り』(1986)『東京ラブストーリー』(1991).etc 貨幣、恋愛至上主義のドラマ この流れは『ロングバケーション』(1996)『ラブジェネレーション』(1997)あたりまでピークが続く
- 『ケイゾク』(1999)ツインピークスの亜種
- 『池袋ウエストサイドパーク』(2000)『木更津キャッツアイ』(2002)郊外のフリーターのコミュニティのドラマ
- 『野ブタ。をプロデュース』(2005)高校生が学校でサヴァイブするドラマ
- 『マルモのおきて』(2011)『家政婦のミタ』(2011)『11人もいる』(2011)新しい家族像を模索するドラマ
- 『リーガルハイ』(2012)価値の相対化の果て、金にアイロニカルに没入したドラマ
ざっくりと書いたので入れ替え必至です。
1983年豊作ですね。2000年代は、もう少しじっくり選びたいところです。
それでこれは一体何かというと、
「家族幻想=確固たる家族像」というところから始まって、だんだん「家族幻想が解体」されていって、結構孤独になったけど、やりがいがあってステイタスも高い仕事をしてお金もばんばん入ってくるから恋愛だってかっこよくなくちゃって考えてるうちにバブルがはじけて、ちょっと病んじゃったりした後、いやいやまだまだ居場所はあるぜって言って郊外の少し外側で仲間と遊んだり自分承認の再構築を試みたりしながら、「家族幻想が解体」されたのなら新しい家族像を手に入れればいいんだよ、といってつながり方を模索して、同時に価値の相対化に対して「あえて、ベタに、決断主義的に」なにかにコミットすることを試みる。
という流れを表したものです。
1970年代から現在までの社会状況の変異をTVドラマの通史で表現できることを確信しました。
カルチャーは、時代に要請されると同時に時代をつくってもいるという相補性において、当然のことではあるのですが。
本にしようとしたらなかなかのヴォリュームになりそうですが、膨大な埋没した資料を調査しなければならない考古学的検証の作業、想像するだけでも大変です。