ボクらはなにをつくるのか -デザインの根拠を得るための新たな問い-

僕は、以前次のような問いを立てました。

「社会が変異して働き方が変わり、住環境が変わり、地域コミュニティが解体され、人とのつきあい方が変わり、家族幻想が崩壊しているのに、どうして地域の特性が失われ、郊外は、住区は、商店街は、住宅は均質になっていくのか」

R0012184.JPG

価値の相対化とは、自由意志、自由決定において多様性を認めることであるにもかかわらず、社会は、世界は均質化していくことへの問いです。

この問いについて、僕らは少しだけ理解することができました。

僕らは、近代的なモデルが解体した後のポストモダンの進行する状況を生きています。それは、「大きな物語」が失効して、もはや深層に審級がなく、工業化社会からポスト工業化社会へハンドルを切って、「ニュータウン化=コンビニ化」=「家族の空洞化×市場化&行政化」へ移行した世界です。

深層には、あらゆるものが解体されてフラットにデータベース化されており、ここから各人が任意にピックアップした情報の欠片を組み合わせて消費する「データベース消費」という消費の形態が一般化しています。このような消費形態においては、オリジナルはつくられた瞬間から部分に解体されて陳列され、消費者、ユーザー、プレイヤーの側でシミュラークルに二次創作、三次創作が氾濫します。そこでは審級は、消費者、ユーザー、プレイヤーの側にあります。

    

建築のはなしをしましょう。

僕は、主に住宅を設計している設計者です。建築家という人もいます。

僕の設計する住宅、あるいはその図面は、「データベース消費」という観点から考えれば、価値を相対化して、他の住宅とフラットに並べられています。同業の建築家だけではなくて、街場の工務店、ビルダー、ハウスメーカー、輸入販売住宅なんかとも一緒にです。審級は、消費者である施主にあります。施主の趣味、趣向、構造や設備的な考え方、予算、業者としてつきあいやすい人柄、偶然の出会いなどによって最終的に誰かが選ばれます。選ばれたのが仮に僕だったとして、施主の理想の住宅を実現するために、さらにドラフトマンに徹することも稀にあります。

これは、審級である消費者の自由を最大値化するかもしれませんが、僕や僕の設計した図面、完成した住宅は、もはや交換可能です。

つまりこういうことです。消費者個人のレベルで自由を行使することは、細部において多様ではあるが、俯瞰すれば均質化していく。

オリジナルの弱体化、プロフェッショナルへの軽視、デザインの根拠、フレームといってもいいですが、そうしたものの差異の否定が規範化されている。

    

もうひとつ付け加えると、消費者は、費用対効果の大きさを最も重視します。安くて性能のいいもの、それが数値化されていて透明だと認識できるものというのは、構造、工法、材料、設備機器にいたるまで、汎用性、流通性の高いシステム化に行き着くわけです。

消費者は、自らものづくりにおけるある部分の価値を捨てて、均質なシステムに内包されることを望んでいるのです。そして、一方では僕が消費者になる、消費者は別の立場でまた別の消費者になにかを供給してもいる点で、みんなが疲弊してしまうのではないか、とも思っています。

捨ててしまうある部分の価値とは金に換算できないものであると、僕は言います。

    

この付け加えて書いた内容は、以前ブログに書いた『瀬山君 ポストモダンを語る』の中の「インフラが整備された」に対応する、今現在僕が生きる世界の負の部分を書いたものですが、少し先走ってしまいました。

実はこの「インフラが整備された」については、まだブログに書いていません。「インフラが整備されていくというのはどういうことか、誰がどのように整備しているのか、そしてインフラが整備されて世界とはどのようなものなのか」という問いをここで新たに立てることにします。この問いへの様々なアプローチが、冒頭の問いに対する回答をより透明にすることが可能だと考えているからです。

しかし、これについて今後書いていくために「構造主義」に当たらないとダメだなこりゃ、と思っていたので、少々骨の折れる作業になりそうですが。

権力の行使について、記号、エクリチュール、テクスト論・・・

でも大丈夫、僕は哲学素人なので、ものづくりとつくられるものの価値、それを実現するためのデザインの根拠(主体的根拠という意味ではありません)を得るために、「構造主義」をマイルドに活用できればと考えているので。そして最高の教科書である内田樹著『寝ながら学べる構造主義』(2002 文春新書)も手元にありますし。

次回は、絶対「初音ミク」でいきます、たぶん。