僕は、システムを推します。
AKB48は、データベース消費の特性を商業ベースで最大限に発揮したモデルだと思います。
データベース消費とは、「シミュラークルが宿る表層」と「データベースが宿る深層」の二層構造からなる消費のモデルです。
「データベースが宿る深層」は、フラットで周縁のない情報の海と言えます。この海から、ユーザー、プレイヤー、消費者は、「萌え要素」と東浩紀は言っていますが、萌えを効率よく刺激するための情報の欠片、記号をピックアップして消費していきます。
『いまや新しく生まれたキャラクターは、その誕生の瞬間から、ただちに要素に分解され、カテゴリーに分類され、データベースに登録される。適当な分類がなければ新しい要素やカテゴリーが用意されるだけであり、そのかぎりで、もはや、オリジナル・キャラクターのオリジナリティすらシミュラークルとしてしか存在しないとも言えるだろう。』
例えばアニメキャラクターが誕生した瞬間から、「めがね」や「猫耳」や「しっぽ」という要素に分解されてデータベース化されてしまう。これを自由に使用して再構築して二次創作、三次創作が創造される。この消費される表層が、
「シミュラークルが宿る表層」です。
そして、細かく分解された要素の欠片が深層なくフラットに陳列されるデータベース化された世界では、当然「大きな物語」は、失調します。
ここで、『表層に現れた見せかけ(個々のユーザーが目にするページ)を決定する審級が、深層にではなく表層に、つまり、隠れた情報そのものではなく読み込むユーザーの側にある』という点に注目します。
近代的なツリーモデルでは、深層にこそ審級が存在しました。しかし、ポストモダン状況の進行する世界では、大きな物語が失調して、細かく分解された要素がフラットにデータベース化されています。もはやそこに審級は、存在しないように映る。このデータベースから、よい要素、悪い要素を選択して消費するのはユーザーの側であり、その選択性と決定性において審級は、「シミュラークルが宿る表層」にあるというのです。
審級とは、ここでは特権的な判定の視座、というような意味で捉えることにします。
では、これをAKB48に当てはめます。
AKB48の総体をもはや把握できない事実は、単に大所帯であることを、また消費者が、カタログ化してタグ付けする範囲を超えています。
大島優子でもまりこさまでもともちんでもさしこでもぱるるでも、彼女達は、データベース化された萌え要素です。彼女達は、丸裸にされてフラットに陳列されます。だから彼女達は、ファンの手の届く劇場公演を続け、握手会を行います。
このデータベース化されたアイドルの一人、あるいは数人を、消費者であるファンがピックアップし、育て、バックアップする。彼らの一票によって総選挙での格付けが決定される。これは、育成ゲームに近い。
つまり審級は、ファンの側にある(性格には、ファンの側にあるように機能している)し、その一人が投票権を100票も持つためにCDを買い漁るという事態も容認されてしまう。なぜなら、総選挙は、AKB48内部の順位を公正に決定することを目的としているのではなく、ファンがどれだけ推すことができたか、それによって推しメンがどれだけ成長できたかを確認し、喜び、悲しむという快楽の増幅装置だからです。そこには、民主主義的な公平性など、必要ない。
同時に萌え要素であるAKB48の個々人は、一人の人間として時に自由にも振る舞います。恋愛禁止という規則を破って外泊もする。しかしこうした行為も織り込み済みで、ファンは、彼女たちの「処女性」の喪失を許せなければ推す対象を替え、「更正」を促すのであれば激しくバッシングし、その行為をも許容するならさらに「推し」続けるのです。
「データベース消費」のモデルとして、AKB48を考えると、ポストモダン状況の進行する世界におけるひとつの想像力を見ることができます。しかし同時に、こうしたことは、プロフェッショナルの弱体化、という側面も浮き彫りにしてしまいます。これについては、次回以降、初音ミクの想像力のあとで論じていければと考えています。
*『 』内記述は、東浩紀著『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会(講談社現代新書 2001)』より抜粋
最後に、AKB48について書かれた新書をご紹介