内田樹を通じてラカンを知り、NHK連続テレビ小説『純と愛』を読解する-構造主義について-(前編)

ポストモダン状況が進行するこの世界における「インフラが整備されていく」ことを理解するために、構造主義をガイドとして論じる第一回です。これを解く鍵として、ミシェル・フーコーが提示する「権力の行使」について当たるのが最良だと思います。ですが、あえて迂回し、構造主義的知のいくつかに触れながらそこへ到達することを試みたいと考えています。たとえ直接的到達が不可能であったとしても、この世界を生きる想像力を提示することは、意義あることだと思うので。

今回は、ジャック・ラカン(1901〜1981)について。

過去ブログで僕は、『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996 GAINAX)について、「自己実現とそのための父性的規範が失効して、母性的自己承認によって全体化した世界=普遍世界が描かれている」という物語の読み込みを行いました。僕は、この作品を、続くゼロ年代、テン年代のサブカルチャーへ継承される想像力への布石として紹介したのですが、まだこれについてブログに書くに至っていません。

ここでは、ラカンの「鏡像段階理論」と「父-の-名」の理論について紹介しますが、前段としてもう一度『新世紀エヴァンゲリオン』に触れたいと思います。

しかしここで書くのは、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(1997)の最後のシーンについてです。

この映画は、TV放映最終2話のリメイクで、TVアニメとは全く異なるストーリーとなっています。サードインパクトが発動、人類補完計画が完結して、人類は自他の境界を消失したアメーバ状の有機体へと変化を遂げます。その中で、主体的「自己(像)」を認識し、個として生きることを選択した主人公碇シンジと同じくエヴァのパイロット惣流・アスカ・ラングレーのふたりだけが、身体を伴って生還するというものです。

このときアスカがシンジを見て発した一言が「キモチワルイ」です。

「キモチワルイ」とは、自他の境界を認識し、他者の他者性を承認したときの「はじめてのことば」です。

この映画のラストシーンとは、TVアニメで語られた「普遍世界に引きこもる」から、どうしようもなく分かり合えないグロテスクで気持ち悪い「他者」をそれでも承認して生きろというメッセージへの昇華です。

 

   

それでは、ジャック・ラカンの「鏡像段階理論」と「父-の-名」の理論について。内田樹著『寝ながら学べる構造主義』(2002 文春新書)をテキストに読解していきます。

『鏡像段階とは人間の幼児が、生後六ヶ月くらいになると、鏡に映った自分の像に興味を抱くようになり、やがて強烈な喜悦を経験する現象を指します。

-中略-

幼児は自分の身体の中にさまざまな「運動のざわめき」を感知してはいるものの、それらはまだ統一に至ることなく、原始的な混沌のうちにあります。この統一性を欠いた身体感覚は、幼児に、おのれの根源的な無能感、自分をとりまく世界との「原始的不調和」の不快感を刻みつけます。そして、この無能感と不快感は幼児の心の奥底に「寸断された身体」という太古的な心象を残します。

-中略-

この「原初的不調和」に苦しむ幼児が、ある日、鏡を見ているうちに、-中略-統一的な視覚像として、一挙に「私」を把握することになります。

「おお、これが<私>なのか」、と子どもは深い安堵と喜悦の感情を経験します。視覚的なイメージとしての「私」に子どもがはじめて遭遇する経験、それが鏡像段階です。

-中略-

もちろん人間が成熟するためには、この段階を通過することが不可欠なのですが、よいことばかりではありません。「一挙に<私>を視覚的に把持した」という気ぜわしい統一像の獲得は、同時に取り返しのつかない裂け目を「私」の内部に呼び込んでもしまうからです。

たしかに、幼児は鏡像という自分の外にある視覚像にわれとわが身を「投げ入れる」という仕方で「私」の統一像を手に入れるわけですが、鏡に映ったイメージは、何といっても、「私そのもの」ではありません。

-中略-

人間は「私ではないもの」を「私」と「見立てる」ことによって「私」を形成したという「つけ」を抱え込むところから人生を始めることになります。「私」の起源は「私ならざるもの」によって担保されており、「私」の原点は「私の内部」にはないのです。これは、考えてみれば、かなり危うい事態です。なにしろ、自分の外部にあるものを「自分自身」と思い込み、それに取り憑くことでかろうじて自己同一性を立ち上げたということですから。言い換えれば、「鏡像段階を通過する」という仕方で、人間は「私」の誕生と同時にある種の狂気を病むことになります。』

このことは、『みずからを透明で安定的な知として想定するものは、そのように自己措定している「知そのもの」が、実は神経症的な病因から誕生した「症候形成」かもしれないという「私の前史」についての反省的視線を欠いている』点で『「自我を知覚-意識システムの中心に位置するものとして構想する」すべての哲学』があやしいものになると言っています。

    

ここで内田が語っている「私」とは、自己、あるいは自己像のことだと思われます。(そう理解しないと以下に記す「主体」、「自我」、「私」の差異を語ることができなくなるので。)

「他者のなかに自己像を見いだす」この自己像こそが「自我」です。

つまり、自分の外側にしか自分を認める術がないのに、「自我」を中心に置いたそれまでの哲学とか成立しないんじゃないの?というわけです。

    

精神分析では(ラカンは、フランスの哲学者であると同時に精神分析医、精神分析家)、被分析者が発することばは、しばしば偽の記憶を語っている。そもそも分析者は、被分析者の記憶の真理(自我)を白日の下にひっぱりだすなんて不可能だし、それが目的ではない。被分析者が「こう思ってほしい」と発した(前未来形で語るおはなし、あるいは被分析者自身が被分析者に似せて誰かについて語っている)ことばを通して、分析者と共犯的に別の物語に移すことで症状を緩和することが重要だ、と言っています。

続けます。

『ですから、精神分析では、「自我」は治療の根拠になりません。-中略-精神分析が足場として選ぶのは、「ことば」の水準です。

-中略-

主体が「私」として語っているとき、さらにことばを語ることを動機づけるもの、それが「自我」です。ですから、対話の目的は、この「自我」の「何ものであるか」を言うのではなく、ただ「自我」の「ありか」を探り当て、その「作用」を見切ることなのです。それが精神分析の仕事です。

「自我」とはそのようなものです。これに対して、「私」とは相手のいる対話の中で「私は・・・・である」という言い方で自己同一化を果たす主体のことです。

「私」とは、主体が「前未来形」で語っているお話の「主人公」です。

つまり、「自我」と「私」は主体の二つの「極」をなしているわけです。主体はその二極間を行きつもどりつしながら、「自我」と「私」の距離をできるだけ縮小することにその全力を賭けます。』

ことばにならないがことばを動機づけている核のような「自我」と、ことばを通じて物語を編む「私」が「主体」を形成しているというのです。そして『他者とことばを共有し、物語を共作すること。それが人間の人間性の根本的条件』なのだと言っています。

    

この『他者とことばを共有し、物語を共作すること』を通じてコミュニケーションの回路に迎え入れる人間の「社会化」プロセスが「父-の-名」になるのですが、ここまで行き着きませんでした。

次回、これに触れて後、NHK連続テレビ小説『純と愛』を読解したいと思います。

*『 』内記述は、内田樹著『寝ながら学べる構造主義(文春新書 2002)』より抜粋

 

   

本当は、『純と愛』を読むためにラカンをプロットしたのですが、意味のないジャーゴンにならないように気をつけましょう。知的探求は、つねに「私は何を知らないか」を起点に開始されるという内田樹のことばを信じて。