データベース消費とはなにか

近代のツリーモデルが機能不全を起こして失効し、セミラチス、あるいはリゾームへと変異していく過程、またそのモデルについて書いてきました。

 

東浩紀は、このポストモダンの進行する状況での消費の特性を「データベース消費」と呼びます。これは、1980年代の日本で示されることの多かった『深層が消滅し、表層の記号だけが多様に結合していく「リゾーム」というモデル』よりも、ポストモダンの世界を記述するのに「データベース・モデル」で捉えた方が理解しやすいこと、によります。

『その分かりやすい例がインターネットである。そこには中心がない。つまり、全てのウェブページを規定するような隠れた大きな物語は存在しない。しかしそれはまた、リゾーム・モデルのように表層的記号の組み合わせだけで成立した世界でもない。インターネットはむしろ、一方には符号化された情報の集積があり、他方にはユーザーの読み込みに応じて作られた個々のウェブページがある、という別種の二層構造がある。この二層構造が近代のツリー・モデルと大きく異なるのは、そこで、表層に現れた見せかけ(個々のユーザーが目にするページ)を決定する審級が、深層にではなく表層に、つまり、隠れた情報そのものではなく読み込むユーザーの側にあるという点である。』

  

東は、この二層構造を「シミュラークルが宿る表層」と「データベースが宿る深層」としています。

「データベースが宿る深層」は、オープンな情報の海のことです。そして「シミュラークルが宿る表層」とは、ユーザー、プレイヤー、消費者がこの海から情報をピックアップして、使用する、消費する層を指しています。

シミュラークルは、フランスの社会学者、ジャン・ボードリヤールが提唱した「オリジナルなきコピー」のことで、ポストモダンの進行する文化産業を予見したものです。東はこれを、二次創作が氾濫し、これへの評価がオリジナルと一緒くたになってしまったため、シミュラークルという言葉をより広義に用いて、シミュラークルのレベルで働いている、と言っています。

  

ここから僕の持論を展開します。

二次創作、三次創作・・・が氾濫してオリジナルとの境界が曖昧になることは、イメージできます。例えば「新世紀エヴァンゲリオン」の画像検索をすると、オリジナルも二次創作もないまぜになってフラットに陳列されています。

それでもなお、オリジナルはオリジナルとして機能する、もっと言ってしまえば、シミュラークル的な状態が大きくなるほどに「ある部分では」、オリジナルが強化されていくのではないか、と僕は考えます。

なぜなら、オリジナルは東の言う「データベースが宿る深層」に存在し、ここから(萌え要素と東は言っていますが)特定のアイテムをピックアップして創作することこそ「シミュラークルが宿る表層」に位置するからです。つまり、検索されるほどにその元ネタは、検索エンジンにひっかかりやすくなる訳です。

現代建築を例に挙げれば、楕円が多用されるほどにレム・コールハースの、アーチ状の窓が多用されれば塚本義晴の、切妻屋根の家型が使用されればヘルツォーク&ド・ムーロンの建築が強化される、ということがおこり得るのだと思います。

しかしまた、彼らもその創造の源をデータベース化された情報の海から拾ってもいるのです。けれど、彼らの拾ってきたアイテムが歴史上の様式の一部や、もっと原初的なパーツであったならば、データベース化された欠片をもってオリジナルを特定することが困難にもなるでしょう。「ある部分では」と申し上げたのは、このことによります。

最後に、東が『表層に現れた見せかけ(個々のユーザーが目にするページ)を決定する審級が、深層にではなく表層に、つまり、隠れた情報そのものではなく読み込むユーザーの側にある』という点に触れておかなくてはなりません。

これについては、次回以降で、村上隆、AKB48、初音ミクを論じることで、説明していきたいと思います。

*『 』内記述は、東浩紀著『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会(講談社現代新書 2001)』より抜粋