ロラン・バルト「テクスト」理論 -エクリチュールについて-

僕らは、作品を鑑賞し、あるいは批評するとき、しばしば作品の根拠を「作者」に求めようとします。「作者」の思考において、「作者」の性格において、「作者」の原体験において、というように。

例えばゴッホの絵画を彼の狂気に、ピカソについて彼の性愛に、シャガールであれば彼の無垢な愛に作品の根拠を見いだす、つまり作者の意図を正確に読み込むという受動的な作業を通じて、作品を理解しようとしているのです。

ロラン・バルト(1915〜1980)は、『物語の構造分析』に収録されている「作者の死」の中で、そのような作者の打ち明け話を批判した上で、作品の根拠を作品それ自体に求めることで「読者が主体的に作品を創造する」ことの重要性を説いています。こうした考えを「テクスト理論」といいます。

   

内田樹著『寝ながら学べる構造主義』(文春新書 2002)を教科書に、「テクスト」理論について理解したいと思います。

   

『バルトの仕事はまとめて「記号学」という名称のもとに包括することができます。

「記号」(signe)というのはソシュールが定義して使い始めた述語です。

-中略-

記号というのは、ある社会集団が制度的に取り決めた「しるしと意味の組み合わせ」のことです。記号は「しるし」と「意味」がセットになってはじめて意味があります。また、「しるし」と「意味」のあいだには、いかなる自然的、内在的な関係もありません。そこにあるのは、純然たる「意味するもの」と「意味されるもの」の機能的関係だけです。』

内田は、将棋をさす際に歩が一個見当たらないとき、蜜柑の皮を歩の代替にしたとして、対局者二人がその「取り決め」に合意しさえすれば将棋は延滞なく進行し、しかし「蜜柑の皮」と「歩」のあいだには、いかなる自然的、社会的な結びつきもないことを例に挙げています。

『このでたらめさが「記号」の本質なのです。

ソシュールは「蜜柑の皮」のような人為的につくられた「しるし」を「意味するもの」(signifiantシニフィアン)、「将棋の歩のはたらき」を「意味されるもの」(signifiéシニフィエ)と呼びました。

-中略-

記号学というのは、私たちの身の回りのどんなものが記号となるのか、それはどんなメッセージをどんなふうに発信し、どんなふうに読解されるのか・・・・・・を究明する学問ということになります。

ソシュールが提示した「記号学」なるものを実際に展開し、『およそ目に触れる限りの文化現象を「記号」として読み解いたのがロラン・バルトです。』

    

僕らの思考や経験の様式は、言語に多くを依存している点で、用いる言語によってそうした様式も当然変化します。つまり僕らは、自由に語っているようでいて実は「不可視の規則」に従って言語を運用しています。

バルトは、この「不可視の規則」を「ラング」(langue)と「スティル」(style)、「エクリチュール」(écriture)の三種類に分類しました。

ラングとは、母国語(言語共同体が用いる言語)のことで、僕らの言語運用を外側から規制します。スティルは、個人的で生得的な言語感覚のことで、語感やリズムのように嗜好における言語運用という点で、僕らの言語運用を内側から規制しています。この二つの縛りに個人的選択の余地がないのに対し、エクリチュールは、ことばづかいについて選択の自由が許されています。このブログで僕は、「僕」を「おれ」と選択していいようにです。

『しかし、選ばれた「語り口」そのものは、 -中略- ある社会集団がすでに集合的に採用しているものです。』

つまり僕らは、語り口、ことばづかいを選択した時点で、ある社会集団に羈属して、言語の運用だけでなく身なりや身のこなし、生活や文化習慣、嗜好にいたるまでこの圧力の内部において振る舞うようになるのです。例えば医者は医者のように、教師は教師のように、不良は不良のように、おたくはおたくのように、という具合です。

語り口の選択の自由、しかし選択した時点で『自分の選んだ語法が強いる「型」にはめこまれてしま』うもの、これがエクリチュールです。

    

『私たちは「エクリチュールの囚人」です。

-中略-

ここでバルトが警告しているのは、あまりに広く受け容れられたせいで、特に「どの集団固有のエクリチュール」とも特定しがたくなった語法の持つ危険性です。

「無徴候的なことばづかい」、それが「覇権を握った語法」です。その語法はその社会における「客観的なことばづかい」です。つまり、何らかの主観的な意見を述べたり、個人的な印象を語ったりするのではなく、客観的に、私情を交えずに、価値中立的に語っているつもりでいるときに使うことばづかいがそれです。バルトは、そのような一見価値中立的に見える語法が含んでいる「予断」や「偏見」に注意を促しています。』

内田は、フェミニズム批評における言語論を用いて『「価値中立的な語法」のうちにこそ、その社会集団の全員が無意識のうちに共有しているイデオロギーがひそんでいる』ことをあぶり出します。

それは、僕らの社会で普通に使用されている「自然な語法」こそ「男性中心主義」的な語法であり、「自然な語法」で繰り返し語るたびに、「覇権を握った性イデオロギー」が強化されるというものです。

『私たちは(自分が「何ものであるか」を忘れて)実に簡単に「テクストを支配している主人公の見方」に同一化してしまいます。それが「現実の私」の敵対者や抑圧者であってさえ。

-中略-

私たちは決して確固とした定見をもった人間としてテクストを読み進んでいるわけではありません。むしろ、 -中略- テクストのほうが私たちを「そのテクストを読むことができる主体」へと形成してゆくのです。

テクストと読者のあいだにこのような「絡み合い」の構造があることに気づき、それを批評の基本原理に鍛え上げたこと、それがバルトのテクスト理論家としての最大の業績です。

テクストも読者もあらかじめ自立した頂として、独立に自存するわけではありません。

-中略-

このテクストと読者のそれぞれがお互いを基礎づけ合い、お互いを深め合う、双方向的なダイナミズムに基づいて、バルトはテクストについてのまったく新しい理論を紡ぎ出すことになります。』

    

僕らは、エクリチュールの囚人であるけれど、しかしある集団固有の、あるいは、もはや一般化して特定を不可能にする客観的場においてさえエクリチュールに囚われている事実について、あまりにも無自覚ではないか。いくらかの批評の現場を経験して、僕はそのように思います。

美術評論家の椹木野衣は著書『日本・現代・美術』(新潮社 1997)第一章で、『彦坂尚嘉のエッセイから抜き出した「閉じられた円環の彼方」というフレーズを元に、この国の美術においては、「閉じられた円環」の「彼方」をめざそうとする(つまり何らかの意味で「前衛」を志向するような)運動は、なぜか必ず、その「起源」としての「閉じられた円環」へといつのまにか回帰してしまうのだと指摘します。つまりそれは「美術史」の「展開=転回」が成立し得ないということ、いわば大文字の「歴史」が生起し得ないということです。椹木はこの「非 歴史性」を、「日本」という国に本質的なものだと論じ、それを「悪い場所」と名付けます。』(佐々木敦著『ニッポンの思想』講談社現代新書 2009)

日本の美術界におけるこうした無限ループは、そしてこの「悪い場所」は、ありとあらゆる創造の場に存在している。

僕ら読者は、批評者は、そして作者は、エクリチュールに対して、また「作者」が後退して「対象(作品)=テクスト」のみがあるとき、テクストのほうが僕たちを「テクストをいかようにも読み込む主体」として形成して行く点で、(テクストと僕らの絡み合いにおいて)「読者」が誕生し、批評が成立することについて、自覚する必要があるように思います。

構造主義からポスト構造主義の移行、「テクスト」を自由にいかようにも解釈ができることから、それでもなお「テクスト」がそうでしかないものとして存在することについて、次回はバルト「作者の死」、デリダ「幽霊」、できれば僕自身の読解の方法にまで記すことができれば、と考えています。

 

*特記外『 』内記述は、内田樹著『寝ながら学べる構造主義(文春新書 2002)』より抜粋