ロラン・バルト「テクスト」理論についての中編です。
前回は、言語運用における三つの「不可視の規制」である「ラング」(langue)、「スティル」(style)、「エクリチュール」(écriture)について書きました。
ラングは、言語運用を外側から規制する母語、スティルは、内側から規制する個人的で生得的な言語感覚を表し、これらに個人的選択の余地はありません。一方でエクリチュールは、選択においての自由があり、しかし選択した時点で「自分の選んだ語法が強いる型にはめこまれてしまう語り口、ことばづかい」というものでした。
内田樹は、テクスト自体が内在する「エクリチュールによる言語運用の不可視の規制」によって、「テクストのほうが私たちをそのテクストを読むことができる主体へと形成してゆく」と言っています。
『テクストと読者のあいだにこのような「絡み合い」の構造があることに気づき、それを批評の基本原理に鍛え上げたこと、それがバルトのテクスト理論家としての最大の業績です。
-中略-
このテクストと読者のそれぞれがお互いを基礎づけ合い、お互いを深め合う、双方向的なダイナミズムに基づいて、バルトはテクストについてのまったく新しい理論を紡ぎ出すことになります。』
それでは、ロラン・バルト「テクスト」理論 -作者の死-について。
『作品の起源に「作者」がいて、その人には何か「言いたいこと」があって、それが物語や映像やタブローや音楽を「媒介」にして、読者や鑑賞者に「伝達」される、という単線的な図式そのものをバルトは否定しました。
-中略-
「作者」とは、何かを「ゼロから」創造した人です。聖書的な伝統に涵養されたヨーロッパ文化において、それは「造物主」を模した概念です。誰かが「無からの創造」をなしとげた。そうであるなら、創造されたものはまるごと造物主の「所有物」である。そう考えることはごく自然なことです。
近代までの批評はこのような神学的信憑の上に成立していました。
-中略-
(ですから)作者こそ、その作品が「何を意味しているのか」について完全に理解し、作品の「秘密」を専一的に握っていると考えられたのです。
ならば、批評家は必ずやこの神=作者に向かって、こう問いかけることになります。
「あなたはいったい、この作品を通して、何を意味し、何を表現し、何を伝達したかったのですか?」』
しかし、この問いは、作品の本質へ至るのにはあまり有効ではありません。作者も作品について分からないからです。もし作者がこの問いに対して語ったとしても、それは作品を「解説」しているに過ぎない。
『言語を語るとき、私たちは必ず、記号を「使い過ぎる」か「使い足らない」か、そのどちらかになります。「過不足なく言語記号を使う」ということは、私たちの身には起こりません。』
しかたがないので批評家は、『作者に書くことを動機づけた初期条件の特定』へと照準を合わせます。
『作者の家庭環境、幼児体験、読書経験、政治イデオロギー、宗教性、器質疾患、性的嗜好・・・・
-中略-
バルトは近代批評のこの原則を退けました。
テクストが生成するプロセスにはそもそも「起源=初期条件」というものが存在しないとバルトは言い始めたのです。そのことを言うために、バルトは「作品」ということばを避けて、「テクスト」(texte)ということばを選びました。
「テクスト」(texte)とは「織り上げられたもの」(tissu)のことです。
この「織り物」はさまざまなところから寄せ集められたさまざまな要素から成り立っています。一編のテクストが仕上がるまでにはほとんど無数のファクターがあります。媒体からの主題や文体や紙数の指定、同時代的な出来事、他のテクストへの気づかいと競合心・・・・・・それぞれのファクターはてんでに固有のふるまいをします。しかし、それらが絡まり合って、いつのまにか「テクスチュア」(texture)は織り上がります。これを前にして「作者は何を表現するためにこれを織り上げたのか」と限定的に問うことはそれほど意味のあることなのでしょうか。』
作者の意図、(絶対的な真理があると仮定して)作品の真実を受動的に読み当てるのではなく、読者は作品を作者から切り離してこれに対峙し、さまざまな要素によって織り上げられたテクストを能動的かつ創造的に、多様に読むことを許す。これがバルトの「テクスト」理論です。そして、このような読解についての考え方をバルトは、「作者の死」と呼んだのです。
さてロラン・バルト「テクスト」理論を内田樹『寝ながら学べる構造主義』(文春新書 2002)をガイドに読み進めてきたわけですが、これについて僕は、エクリチュールから「作者の死」への展開の部分について今ひとつ腑に落ちない。そこには強引なジャンプがあるように感じられるのです。
最後にこの断絶を埋めるために、エクリチュールについて補足しておきたいと思います。
エクリチュールについての現在の使われ方については、ジャック・デリダが体系化したものが一般的なようです。それによれば「話しことば」(パロール)に対比した「書きことば」(エクリチュール)を指します。
話しことばは、西欧哲学史上書きことばに優先されてきました。つまりはじめに(話し)ことばがあって、それを留めるために書物が存在しました。はなしことばは、個人的(主体的)・状況特定的であるのに対し、書きことばは、間接的・非主体的なものです。
書きことば(エクリチュール)は、「選択においての自由はあるが、選択した時点で自分の選んだ語法が強いる型にはめこまれてしまう語り口、ことばづかい」です。この点において、読者は「テクストを支配している主人公の見方」に簡単に同一化し、テクストのほうが僕らを「そのテクストを読むことができる主体」へと形成します。と同時に書きことば(エクリチュール)は、作者の意図する意味作用を超越した自律的、他者的な存在でもあるのです。
さまざまな要素によって織り上げられたテクストは、テクストの側から読者を形成するとともに、読者は、能動的にテクストに対して多様な読解を許されてもいる。つまり、テクストと読者は、そうした双方向の共犯関係を結んでいる、ということになるのです。
『 』内記述は、内田樹著『寝ながら学べる構造主義(文春新書 2002)』より引用