ロラン・バルト「テクスト」理論とは、読者は作品を作者から切り離してこれに対峙し、さまざまな要素によって織り上げられたテクストを能動的かつ創造的に、多様に読むことを許す、というものでした。
これは、極めてポストモダン的な思考といえます。西欧形而上学における表層から深層への一方向性と、その最深部には真理があるという考え方への批判的批評によるものだからです。作品をつくるということは無からの創造であり、創造主である作者にこそ審級がある、読解とは、作品を通じて作者=審級=真理に触れる作業であり、その意味において読者は受動的な観客である、ということに対する批判。
つまりツリーモデルの解体を行っているのですが、この点で「テクスト」理論は、以前本ブログで紹介しました東浩紀「データベース消費」と同義であるといえます。
テクストは、これを織り上げているさまざまな要素に分解され、相対化されてデータベースの領域に存在しています。読者は、シミュラークルの領域にいて、データベースの領域から要素を選択し、再構築=あらたな創造を行うのです。作者の後退、二次・三次創作の氾濫。
審級は、もはや読者の側にあります。
(携帯電話を買う際に消費者は、携帯電話に対峙してその価値を推し量るけれど、携帯電話の作者の意図を汲み取ることはしない、出自のわからないままにインターネット上に出回る情報、作品批評がそれ自体創造性を持ち得るために作品に触れずとも読者は批評を作品化して読む、等)
ここで僕がデータベース消費の項で立てた問いが、再び頭をもたげることになります。「データベース消費が一般化した世界において、それでは作品は、弱体化するのか、強化するのか」です。
この問いをバルト「テクスト」理論に立ち戻って言い換えてみましょう。
「作者が後退してテクストのみがある。このときテクストと読者の絡み合いにおいて多様な読解を再創造する。それでも作品(テクスト=オリジナル)は、そうでしかないものとして存在するか。」
ここでは、佐々木敦『ニッポンの思想(講談社現代新書 2009)』をガイドにしてジャック・デリダ「幽霊」について読み解いていきます。
(東浩紀『存在論的、郵便的-ジャック・デリダについて』(1998)の解説から)
『「脱構築」(そして「テクスト論」)は、その原理からいって「ああも言えるしこうも言えるし・・・・・・以下永遠に続く」を導き出します。しかし実際に永遠に「脱構築」し続けることなど誰にも出来ないし、それは常にある具体的現実的な「テクスト」の姿に固定されざるを得ない。しかしそこには、とりあえず具現化-可視化してはいない「(こうも言える)かもしれなかった」という「幽霊」たちが、無数にひしめいているのです。
-中略-
しかしこれは、単純な意味での「多義性」の顕揚とは違います。東はデリダの「散種」と「多義性」を峻別しています。たとえて言うなら、「多義性」とは「同じ花でも見方によって異なる」ということですが、「散種」はそれに加えて「同じ種でも蒔くたびに違う花が咲く」ということです。前者は「差異(化)」の、後者は「同一性」の論理に基づいています。ここで問題になっているのは、ヴァリエーションの種類や量ではありません。たとえひとつしかないものであっても、そこには常に「それでしかなかった」という可能性と、その「ひとつ」が反復され(得)ることによって、同じものが違うことになってしまうという可能性を含んでいるのです。だから「幽霊」とは、反復可能性がもたらす変異のことであり、と同時に、事実として「そうではなかった」という意味で、選択不可能性=唯一性でもあります。
-中略-
こうしてみると、ここで取り沙汰されているのが、素朴な意味での「テクスト論」が標榜しているような、自由な「読み」の多様性とは、かなり違ったものであることが明らかになってきます。あるいはこうも言えるかもしれません。確かにひとつの「テクスト」は無限の「読み」を誘発する。だがしかし、一度ごとの「読み」は、それが為されてしまったら、その都度決定的で絶対的なものになる。
-中略-
この「読み」の「固定」は、しかしけっして「確定」では(ありえ)ない。しかしわれわれは、どうしたって「確定」が不可能だということ=「幽霊」の存在を知りながら、だがそれでも「固定」することしか出来はしないのだ、と。
-中略-
「彼は彼以外のものになれただろうし、今だってなれるし、これからだって幾らだってなれるのだが、それでも「今の彼」は「今の彼以外の彼」でだけは絶対にありえない」と、東は言っているのです。
-中略-
「幽霊たち」は何度でも何度でも、反復的に回帰する、しかし「彼ら」は「彼」でだけはありえず、「彼」もまた「幽霊たち」の誰かになることだけは出来ないのです。』
僕たちは、テクストを織り上げる過程で、あるいはテクストを読む際に『「こうではないかもしれなかった」のに「こうである」という変更不可能性と、「こうである」けれど「こうではなかったかもしれない」という変更可能性』に挟まれながら、しかしこうでしかないものとしてテクストを固定するのです。この一回性にこそ作品(テクスト)の存在を見いだすことができるのです。
なんだか屁理屈みたいな論法ですが、僕は実感として至極納得します。たとえば僕が作品を鑑賞するとして、その作品に変更可能の多様性を見い出します。こうすればよかったのではないか、こうしなかったのはなぜか、しかし必ず作品に立ち返らなければならない。そうしなければ、僕は単に「幽霊」のはなしをしていることになるのですから。あるいは、変更可能の多様性ゆえに『事実として「そうではなかった」という意味で、選択不可能性=唯一性』が立ち上がる。つまりそれは、作品存在の承認に違いないのです。