ロラン・バルト「テクスト」理論は、読解の多様性を肯定するものでした。これに続いて書いたジャック・デリダ「幽霊」とは、読解の多様性が持つ、ああも言える、こうにもなれる、という変更可能性(幽霊)ゆえに、再帰的に作品=テクストがそうでしかないものとして立ち上がる、ということだったと思います。
では、僕らが生きるこの世界において、これら「知」が教えてくれることは、一体どのようなものなのでしょうか。僕が大学生、専門学校生と関わることで体験した事象について、「テクスト」、「幽霊」から考えてみたいと思います。
はじめに東浩紀がTwitter上で発信した文章について、ご紹介します。
『ぼくの文章を読み直して欲しいのだけど(どうせ言葉では真意は伝われないのだけどw)、ぼくの主張は「真実がない」ではなく「真実には言葉だけでは辿り着けない」です。裏返せば、解釈の余地がない(少ない)一次資料の発見が重要ということですよ。』
『20世紀半ばの哲学者たちはおしなべて、世界に真実はない、ものごとは解釈でいくらでも自由になる、と主張してきました。それが行きすぎて*1ソーカル事件が起きたのはご存じのとおり。1990年代からは一気に風向きが変わり、「確かな真実は疑い得ない」がトレンドになります。』
『デリダといえば脱構築ですが、そんな彼も90年代には新しい方向で再解釈されました。けれどもぼくはその流行に抗して、むしろ*2「テキストだけではなにも決定できない」という古い主張を擁護した。それがぼくの博士論文です』
* 1:1994年、学術雑誌「ソーシャル・テキスト」が、物理学者アラン・ソーカルによる疑似論文(ポストモダン批評のスタイルを模した哲学的タームと自然科学の用語をデタラメにちりばめたもの)を掲載してしまったことに端を発する一連の騒動。ソーカルによる「ポストモダン哲学」批判です。
* 2:「テクスト」理論による多様な読解を指していると考えられます。
前後の文脈が分かりませんが、ここでは、単に「テクスト」読解についての「知」の変遷とこれについての東自身のスタンス、と捉えてください。そして、この短いですが簡潔にまとめられた東の「つぶやき」を下敷きにして、以下僕が体験し、そこで考えたことを論じます。
建築系大学講師の呼びかけによる1年生、2年生対象のスケッチ教室に参加して。
「安藤忠雄設計による住吉の長屋について、図面、写真を参照しながら自由にスケッチしなさい」。この題目に対して、1年生のスケッチのほとんどは、透視図的に、輪郭線を排除しながら線のタッチで陰影表現しようとするいわゆるデッサンの体裁で描かれていました。しかしここで求められていることは、「住吉の長屋のコンテクスト(文脈)を読みながら、これについて多様な表現をしなさい」です。スケッチ表現は、三面図でも断面図でも展開図でもアクソメトリックでも模型でも・・・いいのです。つまり講師が求めているのが読解の多様性であるのに対し、1年生の多くは、理想的スケッチ像=デッサンを目指している訳です。
もちろんスケッチ表現は、デッサンであってもかまいません。しかし彼らは、お題=問題を解く作業、深層をたぐっていけば唯一無二の答えに行き着くと考えていて、とりあえずの正解をデッサンだと設定しているのです。いえ、そのように思考していなくとも問題には解答があるという「受験脳」が出来上がっている。これをまず壊すことがスケッチ教室のひとつの目的です。
僕は、これを通過儀礼のようなものだと思います。大学に入ってひとつめの通過儀礼。「テクスト」について多様な読解が許されるのだということを学ぶのです。
これについて学びそびれた学生のいくらかは、設計課題で訳が分からなくなってしまいます。ありもしない答えを、課題文に、担当講師の一言一句に求めてしまい、これに囚われてしまうのです。だから「何をやっていいか分かりません、教えてください」、「正解は何ですか」、「先生の言う通りにやったのに評価されませんでした」ということになってしまう。
さて、「テクスト」論的読解を身につけた2年生は、活き活きした線を用いて、「自分の」住吉の長屋=二次創作をスケッチします。円柱の住吉の長屋、極端に細長い住吉の長屋、カラフルな住吉の長屋。住吉の長屋は、周辺環境に対して閉じた直方体、その長手方向を3分割して、真ん中を中庭としていますが、円柱であろうが細長であろうが、きちんとこの内外部の構成を反映させてもいます。つまり住吉の長屋のコンテクスト(文脈)を読み込んでもいるのです。
しかし彼らは、本当に「住吉の長屋」を理解しているでしょうか。外部環境について、方位について、敷地について、形態、空間を構成しているプロポーションについて、身体論的な空間体験について、どのように住んでいるのかについて、中庭に面した短手のパラペットが長手のパラペットに比して短い理由について、構造的解釈について、雨水のルートについて、衛生設備・空調換気設備の各種ルートについて、床スレートの割り付けについて、光の入り方について、風の抜け方について、サッシのおさまりについて、壁・スラブの厚さについて、コンクリート型枠の割り付けについて・・・。
「そうでしかないものとして立ち上がる唯一のもの=一次創作=テクスト」に繰り返し立ち返ることの獲得、これがふたつ目の通過儀礼、2年生がこの時期に学んでほしいことです。僕は、1年間で多様な読解を獲得した2年生に、ここで満足してほしくないと思うのです。
「テクスト」理論的多様な読解を、単に審級が読者の側にあるとして(さまざまな要素によって織り上げられたテクストは、テクストの側から読者を形成してもいるはずであるが)、読者がテクストを読みたいようにしか読まないとするならば、読解=創作の障害として働く場合があります。それは、読者にとって都合のいい要素のみを抽出して読んだ気になる、私的読解手法のみを手がかりにして普遍世界を構築してしまうということです。
そしてこのような個人的な読解のテクニックを獲得した早熟な学生ほど、3年生になって伸び悩む、そうした学生を何人も僕は見てきました。
このような学生がつくる作品はどのようなものでしょう。それは、コンセプトが、あるいはかたちが、プログラムが、プランが「知」の表面をすくい、図面を構成する線の一本にそうであることの意味を見いだせず、プレゼンテーションの流麗な表現が自作を飾り立てることにしか機能しない、もっと言ってしまえば建築に似たものを提示して「私を承認してください」と胸を張っている作品です。僕は、そういうものをいくつも見てきたのです。こうした作品は、理解や表現の不足によってではなく、むしろ流暢に語られ、一見して完成度は高い(ように見える)。
僕は、そのような作品を憎んでいます。そして、学生諸君にはそのようなものをつくってほしくないと思っています。ですから多様な読解を獲得してなお、東の言うところの「解釈の余地がない(少ない)一次資料」をそうでしかないものとして読む作業、これを繰り返してほしいと考えるのです。
スケッチ教室の主催者のおひとりが「読むことは創造すること」とおっしゃっていました。これを僕は、僕が先に記したことだと理解しています。ですから、このブログを学生諸君への贈与のことばとして書きました。
なお僕は、「テクスト」を言語表現、またこれによる書物、あるいはこれに類する作品に限定せず、むしろ実存として立ち現れる二次元、三次元表現全般(二次創作、三次創作を含む)と捉えています。実存としての建築を生業としている以上、そのように表象することこそ実感覚として理解できるからです。