相田武文という建築家 -新宿で濃密な時間を過ごして-

2015年3月5日(木)、新宿伊勢丹の裏手のビルの8階で、そのささやかな宴が開かれました。

主役は、相田武文先生。

僕が大学院時代に教わった先生であり、日本を代表する建築家の一人でもあります。

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ことの発端は、僕が以前ブログで書いた建築における包摂の問題について、これを読んでくれた、現在相田先生と共同で事務所を経営する土居君から、いろいろお話しませんかと飲みのお誘いをいただいたことによります。当日は、相田先生をはじめ、僕の2年後輩の土居君、石川君、1年後輩の下田君、矢崎君、根岸君と僕の7人が集い、非常に楽しいひと時を共有しました。

学生時代の僕は、相田先生のことが怖くてしかたがありませんでした。いつも仕立ての良いダブルのスーツを着られていて眼光は鋭く、それほど大柄でないのですが、威圧感たっぷりに大きく見えましたし、僕はできるだけ先生の目に入らないように存在感を消そうとしていました。それは建築の世界の第一線を走られている人間の持つオーラのようなものだったのかも知れません。

僕も40歳を過ぎて、今では相田先生とお話しできることを楽しく感じられるようになりましたが、それでも独特の緊張感があり、お行儀の良い猫のようになってしまうのですが。

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僕は30代の後半からずいぶん本を読むようになりました。今では本の虫、もしくは読恥なんていう言葉もあるそうですが、そうしたものに近づいているようです。

読書は頭でっかちになって経験則から離れていく、とおっしゃる方もいらっしゃいますが、気付いたこととして、読書は実体験、あるいは既読した知識を経験則として新たな知識をストックしていく行為のように思います。経験や知識が規範化されることで、次の読書がこれに上書きされていくことになり、またこうした知識の集積が常に実践へのフィードバックを目的化してもいるんですね。

そのように読書をするようになってから、僕は人の発する言葉について昔よりもずっと深く考えるようになりました。この人は一体何を言いたいのか、今言った言葉はどのように解釈すべきか、という具合に。これは読書することへの欲求と同じく、「知らない」を探求することでもあります。ですから僕は、安易に発せられる無意味な、その場を繕ったり聞き心地のよい言葉と、言葉を発する人間が知識を自身に溜め込み、咀嚼し、自らの声として発せられた言葉の違いに多少なりとも気付くようになったのです。

相田先生の言葉は後者です。蓄えられた知識と経験を反芻し、咀嚼してご自身の「言葉」として発せられている。それは言霊であり、ゆえに人を強く引きつけるものでもあるのだと思います。

相田先生のお話は、お聞きしていて非常に楽しい。幼少期の経験、名だたる建築家のご友人にまつわる逸話、教育者としての視点、お話は多岐に渡り、また多視点的というのかな、持論を展開されているのにそこにいたる思考の接続が複数用意されている、という印象を受けます。そして閉じていかない。常に世界を開かれていらっしゃる。

たぶん僕が学生の頃から、相田先生はずっとそのような人だったのだと思います。僕が心を閉ざして、見ようとしなかったものを見られるようになるのにずいぶん時間がかかってしまいました。けれどこうした場を通じて本当に楽しい体験をできるようになったことに、自分でもよかったなあと思えるのです。

さて、相田先生のような建築家になるぞと独立して貧乏をしている僕らで被害者の会を結成しようというオチが付いたところで宴はお開き。今後相田事務所で月一回でも勉強会をやりましょうということになりました。

帰宅して、昨年相田先生から頂戴した『建築家のひとこと』(相田武文著 新建築社)を開き、そこに記された言葉を辿ると、まさに目の前で先生が語られたその「言葉」が紙に定着されているのでした。