ポストモダン建築の平行言語1 -「引用」を用いた建築の歴史との対話-

僕らの設計した最も新しい住宅が完成し、『モンタージュ2』と名付けました。この母娘の住む千葉里山の住宅について、「引用」というテーマで設計の根拠を記述したのですが、これについて僕の出身大学の尊敬する大先輩からコメントをいただきました。それは、『建築と日常 No.3-4合併号 特集:現在する歴史』を読んで、建築と「引用」、あるいは建築における「引用」について掘り下げてみてはどうかというものでした。

というわけで、今回は、このことについて書いてみたいと思います。

いつものように思考のスイッチを切り替えるのに、文体を変えて書きます。

『建築と日常 No.3-4合併号 特集:現在する歴史』には次のようなことが書いてある。

「建築は歴史を内包し、それを日常に現在させている。」

これは、建築が歴史の積層によってそもそも存在する媒体であり、あるいはまた様々な時代の建築が時間を超越して、今、目の前に同時存在することの両方を指していると考えられる。

その意味で同書は、私たちが過去と現在を分離して「今」のみを語ること、つまり歴史自体を無効化することは出来ないであろうと言っている。

同書では、詩人T・S・エリオット(1888〜1965)の『伝統と個人的な才能』

(1919)が引用されているが、そこには死んだ詩人たちの不滅性の中に身を置くことの重要性が記されている。

先人たちの成し得た偉業、その不滅性に身を投じること、それは一体どのようなものか。

ここでは、ポストモダン建築を用いて、またそこからこぼれ落ちたパラレルな言語的解釈にまで踏み込んで、論の構築を目指すことにする。

 

ポストモダン建築とは、早くは1960年代、代表的な建築家としてはロバート・ヴェンチューリの著書『建築の多様性と対立性』(1966)と氏の建築作品に端を発する。その後チャールズ・ジェンクス『ポスト・モダニズムの建築言語』(1978)によって体系化され、1980年代を代表する建築様式、というよりスタイルと言った方が妥当かもしれないが、を築くこととなる。

ポストモダン建築の特筆すべき特徴とは、歴史様式を相対化して要素を折衷したり、技術的なハイブリッド(混成)にある。ポストモダン建築は、その名の通り近代建築を超克するものである。

では、近代建築の超克とは何か。

 

近代建築は、18世紀、イギリスの産業革命に端を発し、劇的な科学的発展によるマシンエイジの到来によって実現した建築様式である。鉄、ガラス、コンクリートの技術革新とオートメーション化による、余計な装飾を排除してシステマティックに機能性と合理性を優先した建築、またその運動を指す。

1950年代、既に近代建築は形骸化したものになっていた。近代建築のシステム、その機能性や合理性は方法論として言語化され流通していく。劣化したコピー。「空間」という概念は、近代建築の特徴のひとつであるが、こうした言語流通しにくいものは捨てられ、表層的なシステムと意匠性のみが世界に散布されていった。

近代建築は、世界中のどこにでも同じシステムを用いて建築できることを目指す点で侵略的でもある。それはまた、西欧形而上学的なトップダウンの構造にも由来している。

ポストモダン建築は、近代建築がそもそも内包するこうした特性へのカウンターとして機能した。例えば、バナキュラーと呼ばれる土着的な建築もポストモダン建築のひとつの特徴であるが、地域や民族、慣習や歴史の復権の表れといえる。

 

しかし、ポストモダン建築の特徴に挙げられる歴史的様式の折衷が、なぜ近代を超克することになるのか。これについては、近代からポストモダンへ移行する思想の変移を参照することにしよう。

フランスの文化人類学者であり、民俗学者であるレヴィ・ストロースは、オーストラリアの未開族の婚姻の規則の中に、クラインの四元群と同じ構造があることを見いだした(『親族の基本構造』1949)。

ここで重要なのは、当時の西欧人にとって人間ですらない未開の民族の婚姻の規則が、西欧の先鋭的数学による到達よりずっと前から理解されていたという事実である。

つまりは、神を頂点においたツリー状の構造、そうした世界の成り立ちが揺さぶられたということになる。

ここから1960年代の「構造主義」へと結実する。「構造主義」では、西欧形而上学的なトップダウンによるシステム(あるいはあらゆるイデオロギー)を相対化することが試みられる。

例を挙げれば、巨大な都市計画を建築家が俯瞰的に「計画」することは、まさにトップダウンによる構造化であり、極めて近代的な思考である。これに対して、街は、様々な要素が混じり合い、関係を持ち合うことで網目状のネットワークをつくり出しているという考え方は、構造主義的なものである。

これを分かりやすく示したものがツリーとセミラチスという二つのモデルの対比であるが(『都市はツリーではない』1965 クリストファー・アレグザンダー)、ポストモダン建築の歴史様式の折衷とは、歴史という一方向への流れを相対化して、歴史様式を並列してそこから好きに要素を抽出し、組み合わせて建築をつくるものなのである。これが西欧近代のトップダウン的、一方向的な世界を乗り越えることであり、近代建築の超克へとつながることになる。

 

ポストモダン建築は、その歴史的、視覚的要素(パーツ)の組み合わせによる表層的な意匠においてひとつのムーヴメントを築くが、しかし皮肉にもその表層性によって市場経済に一つのスタイルとして組み込まれていき、1980年代をピークに減退していく。1990年代以降、建築を取り巻く状況はめまぐるしく変移し、新たなスタイルが現れては消えていく状況、それは極めてファッションに近づくものだが、これもまた、より加速度的に消費のシステムに組み込まれていくことになる。

しかし、現代思想からこの状況を見るならば、ポストモダン状況が現在も進行しているにすぎない。つまり、価値の相対化が進行し、細分化していく点で、もはや建築を取り巻く状況をひとつのムーヴメントとして抱合することが叶わない状況にあるのである。

 

『建築と日常 No.3-4合併号 特集:現在する歴史』では、一見歴史に向き合うことに意識的であるようにみえるものが、その実「今、ここ」のみを抽出し、歴史的な時間や空間の連続性を切断しているのではないかと問い、またそのことを嘆いてもいる。

同書では、これを政治や生活、SNS環境を含む日常にまで思考を拡大しているが、私が狭義の建築についてのみ回答を試みれば、こうした状況とは、まさにポストモダン建築の歴史様式の折衷、要素還元がより進行している、ということに違いない。

 

・・・・・・・・・・

文章が長くなってしまい書ききれませんでした。

次回。歴史の断絶がなぜポストモダン建築と同義に扱われるのか。また僕の言う「引用」とは何を指し、それが導く建築がポストモダン建築における歴史要素の折衷と何が異なるのか。そしてこの論の組み立てがポストモダン建築で言語化されずにこぼれ落ちた思考として、あるひとつの建築の可能性を記述し、歴史と対話するに至るならば、このブログは一つの成功をおさめたといえるでしょう。

まだ先は長い。