ポストモダン建築の平行言語2 -「引用」を用いた建築の歴史との対話-

前回のブログの続きになります。

前回は、『建築と日常 No.3-4合併号 特集:現在する歴史』を読んで、建築と「引用」、あるいは建築における「引用」について掘り下げた記述を試みるため、その序章として近代建築からポストモダン建築への移行について書きました。

「建築は歴史を内包し、それを日常に現在させている」事実、「死者たちの不滅性の中に身を置くことの重要性」を紐解くための第二回。今回は、ポストモダン建築の視覚言語、そこからこぼれ落ちたパラレルな言語的解釈にまで踏み込むために、「今、ここ」を語るのみの世界の状況について、データベース消費を用いてポストモダン状況の進行する世界を記します。

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歴史的な時間や空間の連続性を無効化し、「今、ここ」のみを抽出することは、ポストモダン状況が進行することによるものである。これはどのようなことか。

東浩紀著『動物化するポストモダン』(2003)を参照しよう。

東は、物語そのものではなく、これを構成する要素をデータベース化して、ここから「萌え要素」を抽出して再構成を行い、二次創作、三次創作を生む状況をデータベース消費と捉えた。例えば、ある物語に登場するキャラクターの猫耳が可愛ければ、これを「萌え要素」としてデータベース化し、データベースからお気に入りの要素としてこれを抽出して再構築することで、新たなコンテンツを生むとともにこれを消費するような形態である。

ポストモダン建築とは、そもそもそうした消費形態を孕んでいる。

イオニア式のオーダーをデータベース化し、必要に応じてこれを抽出して、建築に当てはめていくように。そこには、要素のみをデータベース化する点で、歴史的時間や空間の連続性は失効してしまう。建築を構成する要素は、断片化して相対化してしまうのである。

 

ポストモダン状況が進行するに従い、「萌え要素」は、より細密に断片化、細分化が進む。

80年代、ポストモダン建築を彩る歴史的建築様式の要素は、例えばイオニア式オーダーであり、歴史教科書に登場する各時代の建築様式の構成要素そのものであった。しかし、90年代末以降「萌え要素」は、よりニッチでマイナーな細かなものへと移行していく。

例えば、アトリエワンの『ハウス・タワー』(2006)のアラビックなアーチ窓、ヘルツオーク&ド・ムーロンの『レイマンの家』(1997)の家型を挙げることが出来る。そこにはもはや歴史的様式は存在しない。要素還元が進行し、歴史的時間や空間の連続性は完全に失効してしまっている。アラビックなアーチ窓は、あるいは家型は、単に「萌え」を喚起するための建築を構成する要素に過ぎない。坂本一成の記号論的家型における意味性が消失しているのである。

そして、こうしたアラビックなアーチ窓の「発見」は、また新たな二次、三次創作を生むこととなる。これについては、90年代後半の女子高生のルーズソックスを凡例として記述することにする。

ルーズソックスは、女子高生が登山用のソックスをクシュクシュにしてはいたことに端を発するようだ。いずれにせよ東京から発信されたルーズソックスは、瞬く間に女子高生のファッションアイテムとして浸透した。ただ、東京の女子高生は、これ以上やったら下品だ、というような微妙なニュアンスを共有していたようだ。しかし、これを特集したティーンズ向けのファッション雑誌が地方で流通する際、こうした微妙なニュアンスは情報に載らない。故に視覚情報としてルーズソックスをオシャレアイテムとして消費する地方の女子高生は、より過激に「萌え」を盛ることになる。そうした地方の女子高生が、週末に渋谷に遊びにいってまた雑誌に写真を撮られる。そしてまたそうした視覚情報が地方に伝播し、より過激に変化していくのである。上昇していく螺旋形態と言ってもいい。

こうした、微細なニュアンスがこぼれ落ちて視覚情報のみが流通し、より過激に変移しながら消費されていくような状況は、建築においても同じである。ただ、ここで重要なのは、伝播して消費されていく「萌え要素」は、その多くが視覚情報であるという事実である。

 

ポストモダン状況が進行していく過程における現代建築が、そもそも内包しているべき歴史の持つ時間、空間を失効して「今、ここ」のみを抽出する所以とはこのようなものである。私たちが認識する広義のポストモダン建築(現代思想におけるポストモダン状況の進行が2015年現在も継続されているという意味において)とは、こうした世界の変容に依拠している。

では、私たちは、もはや歴史そのものの事実に敬意をはらうことなく都合の良い要素のみをデータベース化すること、そしてまたそこから都合の良い「萌え要素」のみをピックアップし、コラージュしていればよいのであろうか。

私はそのように思わない。

私は、T・S・エリオットの語る「死んだ詩人たちの不滅性の中に身を置くことの重要性」を尊重する。

しかし、それでは建築を記述する上で、歴史への畏怖と尊敬の中に身を投じ、そこから歴史の事実をもってオリジナリティを獲得することが如何にして可能であろうか。

次回、視覚言語という最も流通と消費に長けたコンテツによってこぼれ落ちて忘れ去られたもの、つまり視覚言語ではない言語体系について記すことを試みる。それはポストモダンの平行(パラレル)言語であり、もうひとつの未来への接続の方法である。