言葉についてのエトセトラ

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言葉を「使う」というのは、とても難しいことですね。

厳密であろうとどれほど言葉を駆使しても、100%の他者への伝達は叶わないわけで、それでも言葉を使わなければ、コミュニケーションもままならないんですよね。

言葉は、プリミティブな情報伝達の手段であるとともにコミュニケーションの道具でもあるわけです。言葉と言ってもパロール(話し言葉)とエクリチュール(書き言葉)に大別されるわけですが、古来ヨーロッパや中東などでは、エクリチュールに優先してパロールこそが真でもあったようです。例えばイスラム教のコーランなんて口頭伝承ですし。

まあ、そうしたうんちくはさておき、最近言葉について思ったことを少しばかり記述してみたいと思います。

僕は子どもを授かって、この半年で生活環境もがらりと変わったわけですが、自宅からドアツードアで1時間の職場への通勤も、ここのところ電車から車移動に切りかわりました。この歳になってはじめてマイカーを手に入れたわけですが(といっても中古のボロ車なんですが)、車中ラジオをずっと流しています。

そこで最近気になっているのがリーバイスのCMでして、キャッチコピーが「いいね不要」なんですね。

「他人の評価に振り回されない、自分らしくあれ」ってことだと思うんですけど、理屈っぽいことを考えるとなかなか考えさせられる文言でもあるわけです。

リーバイスといえば、ゴールドラッシュの時代に鉱夫が着用した丈夫な生地(デニム)に端を発していて、そういうこともあってか、ジーンズといえば男臭いイメージがありました。リーバイスなんかのジーンズメーカーも、かつてのマルボロやラッキーストライクみたいに「男らしさ」を売りにしたコマーシャルが主流だったように思います。例えばカウボーイ、あるいはハーレーダビッドソンなんかにまたがるというような感じでしょうか。

けれど現代は、トランスジェンダーを出すまでもなく、ジェンダーフリーが浸透していますし、変に男らしいなんて言ったら、もう性差別に直結したりもするわけです。ですから「男らしい」から「自分らしい」へとシフトするのも、まあ頷けるわけです。

でも、ここで僕がひっかかるのは、そもそも「いいね」っていうのは、自分の言動を少なからず肯定してもらっていることで、そこには価値の共有が発生しているわけです。共感と言っても良いですが。現代は、価値の相対化が進行している状況にあるとはいえ、それでも価値の共有無くしては、「もの」の共感もあり得ないと思うのですが。なんてことを考えると、リーバイスは、消費者に価値を共感してもらってはじめて商品を売ることが出来るわけですから、その点で自社の商品をも否定している、否定というのは大げさだとしても、自社の商品に共感してもらわなくても自分らしい商品を作りつづけますよっていう意思表明にも聞こえてしまって、それはそれでどうなんだとラジオに向かって突っ込んでもしまうわけです。

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さて、話は変わってある建築の学生作品の講評会の一幕でのお話。

その学生は、外界と遮断したとても閉鎖的な壁を用いた墓の内部みたいな建築物を設計していたんですが、彼は意気揚々とこう説明したんです。

「街にはガラス張りのビルディングがあふれている。これは一見建築の内部と外部をシームレスにつなぎ、そこにイベントが発生することを意図しているようでもある。しかし実際には、ガラスという壁によって境界は分断され、相互に関係を持つことなんてないではないか。であるならば、それは不透明の壁で内部を遮断していることと違いは無い。だから僕は閉鎖的な壁を選択した。」

いやちょっと待てと。これはこういうことではないでしょうか。

「AとBは同質である。AはないけどBはある。」

つまりこのレトリックは成立していないんでは?

つまりは、価値の階層としてAとBは同列にあるので、その中でBを選択するのには、別の理由が無くてはならないのでは?と思ったんです。一見Aを比較対象としてこれを否定することでBが浮上するような論法ですけど、そもそもAとBが相対化された同じ階層に位置することを明示した上で、だからBを選んだというのは、おかしな話ですよね。

言葉って難しいですね。

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最後にコミュ障について。

僕は、Facebookで他愛のない話を不定期にアップしていたんですが、コミュ障との不毛なやり取りに疲れてしまって、ただいまこのブログ以外休止しています。

コミュ障っていうのは、ネットスラングで、そんなこと厳密に言えばある種の疾患になってしまうかもしれませんが、ツイッターなどで多用されているもう少しソフトな、けれどネガティブな言葉でもありますね。

コミュ障って、人見知りが激しくて、積極的にコミュニケーションを図れない人のことについてよく言われていますが、どうもそれだけではないようです。人見知りの人は、他人との関わりに敏感故に上手くコミュニケートできない点で、センシティブに過ぎるだけなんですって。で、コミュ障には、言ってみれば空気読めない人の方を指すというのもあるようで、僕が考えるのは、読解力が弱いゆえに、自身のフィルターを通過する時点で全く異なった解釈をしてしまい、故になんだかとんちんかんな返答をしてしまう人のように思います。まあそれだけなら害はないのですが、その返答がネガティブな方向へと誘うようなものだと、なんだかずっと嫌な気持ちになってしまうんですね。

そういった人は、決して多くはない、というか一人ふたりの話なんですが。では僕は、そうした人を批判して、決して自分はそうではないかと言えば、そうとも言い切れないわけです。また、僕自身の発言が抽象的であるとか、言葉の使用に問題があるとか、そういったこともあるかもしれません。

いずれにせよ、言葉は、極めてプリミティブなコミュニケーションツールであるので、小さいときから何の疑いも無く、自由に使用しているわけです。でも、本当は、言葉の厳密性や、それを扱う側、読解する側の能力も問われているわけで、本当は高度なスキルを要するものでもあるんでしょうね。

構造主義におけるテクスト論によれば、作者は死に、作品は自立し、読み手が誕生したわけですから、その点で読み手の数だけ真理もまた存在するんでしょうが、それならば「読む」ということについて日々の鍛錬を怠ってもいけないように思います。

これはもちろん僕自身についてもいえるわけで、自戒の念を込めて。

なにはともあれ、最近改めて言葉って難しいと思ったので、気になったことを書いてみました。

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