さやわか著『文学の読み方』(星海社新書)が、2016年9月に出版されて、これを読み終えた僕は、今ワクワクが暴走しています。
テン年代半ばになって、やっとこうした批評書が出たことに強いシンパシーを感じるとともに、僕がずっとモヤモヤしている問題について、文学という領域の話ではあるけれど、スカッと気持ちをはらしてくれたと感じているからです。
さやわかさん、最高だねってことで、今回は文学について、思うところを記述してみようと思っています。
2010年6月1日発刊のBRUTUSは、「ポップカルチャーの教科書」という特集が組まれているのだけれど、この中に高橋源一郎が『「日本文学」から「ニッポン文学」へ』という記事を書いています。
BRUTUSに高橋源一郎が文学について書いちゃうってこともなかなかのことだと思うのですが、ここに記載されていることといえば、明治から始まった日本の文学が1980年を境に全く異なるものへジャンプ、あるいはダイブしてしまったこと(村上龍、村上春樹、田中康夫など)、つまりはポストモダン状況の進行する状況下で、ハイカルチャーとかサブカルチャーとかの境界が曖昧になっていき、フラットな島宇宙的世界に相対化されてしまった現状について書いているわけです。
僕は、このポップカルチャーとしての文学論にシビれたわけですが、ではなぜ文学作品は①BRUTUS的にいえばポップカルチャー化したのか、言い方を変えればサブカルチャーとその境界をにじませていったのか、②芥川賞に見られるような文壇とはいかなるもので、それはどのような(権威的)規範において作品を選考しているのか、ということが気にもなってくるんですね。
①については、構造主義以降の世界における、近代形而上的なトップダウンによるツリー構造が解体され、価値が相対化されていったため、といえるでしょう。つまり文学とはこういうものだというある特権的な規範が弱体化していく中で、作家の側がもはやその範疇における「書く」という行為の外側に目を向けはじめたということになります。ハイファッションよりも、もはやストリートの方が同時代的な刺激を生んでいるのと似たような。
それで②については、僕はよく分からなかったんですね。芥川賞なんかの審査員の選考理由とか作品評なんか読んでも全然よくわからない。でもそこには文壇における、あるいは純文学とはこういうものだと考えている方達による暗黙知みたいなものが存在してもいる。僕なんか、直木賞作品と漫画を平行して読んで、「なんだ、この漫画の方が全然面白いじゃん」なんて思って、シニカルに「ブンガク」なんてカタカナ表記したことがあって、それを大学の先輩に鬼の形相で怒られましたし。でも、未だに怒られた理由が分からないし、何より「では文学とは何か」についてはやはり分からないままなんですね。
という僕の素朴な、いや、いくらかアイロニー漂わせてますが、そうした疑問について、さやわかさんは、実に明快に、そして鋭利な切り口で答えてくれました。もちろんこの『文学の読み方』は、鋭利ではあるがひとつの切り方に過ぎないということをはじめに断る必要があるかとは思いますが。
で、そもそも文学って何ですか?
さやわかによれば、坪内逍遥の『小説神髄』(1885)に「⑴文学とは、人の心を描くものである⑵文学とは、ありのままの現実を描くものである」と記述されていて、これが規範となってその後連綿と文学の骨となり得ているようです。
しかし文学は、「心情を描写した言葉」であり、「現実を描写した言葉」でしかないため、この規範自体が錯覚でしかないと言っているんですね。さらにある特定の人物の心情を掘り下げると、現実から乖離もするし、その逆もしかりという点で、そもそもこのふたつの論旨は相反してもいます。
その後、明治後期のマスメディアの発達とともに作家と作品を同一視させながら(私小説的作品の繁栄)、日本文学を方向付けていきます。大正時代のプロレタリア文学、戦時下における菊池寛の積極的国策協力、芥川賞の商業主義的出発、戦後の戦前回帰と近代化のやり直し、という具合にさやわかは、時系列に文学の変容を描きながら、しかしその骨格にある「⑴文学とは、人の心を描くものである⑵文学とは、ありのままの現実を描くものである」という錯覚を前提にした文壇の確立と文学の強化について触れています。
面白いのは、菊池寛が「純文学」を「大衆文学の対極に位置するものとして仮定したところの比較法による属性の列記」なんて言っていて、定義づけどころか何も言っていなかったりしています。
そういうわけで、明治以降に確立した文学、純文学なるものの不明瞭さとはそのようなものだったんだなあと理解しました。
「文学の錯覚」について、さやわかは、石原慎太郎『太陽の季節』、村上龍『限りなく透明に近いブルー』の両芥川賞作品がこれを露見してしまったとし、ここから村上春樹とそれ以降の作家、最終的には東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン』をとりあげながらライトノベルやファウスト系、ゲームのような小説にまで言及しています。
結局のところさやわかは、文学や文壇を否定、批判しているわけではなくて、「文学」それ自体が持つ錯覚に自覚的になり、メタ視点を持ちながら作品と関われと言っているように思います。ロラン・バルトの「テクスト論」以降の、もはや主体は読み手の側にある点で、その作品にリアリティを感じるかどうかは、読者自身の問題でもあるわけで、今さら「それ、リアルに書けてるからいい作品」とか言われてもねってはなしですしね。
で、僕は、ずっとこうしたことに引っかかりを持って、日々生活しているんです。これは文学だけの話ではなくて、アートも建築も、かつて(今も)ハイカルチャーとして位置づけられてきたものについて、かなり疑りの目で見ています。
例えば、ル・コルビュジェが提唱した「近代建築の五原則」をそのまま近代建築の原則として理解することほどばからしいことは無いと思っています。あれは、単に近代建築技術の発達によって実現可能となった五つの建築的手法であって、それをモデル化したものだと考えるべきです。そういうふうに読まないから、プロパガンダだったり、ちょっと上手いこと言ったりして言語化されたものだけが残って、言語化されなかった、もしかしたらもっと重要な点を忘れ去ってしまうのではないでしょうか。だからレム・コールハースなんてそうしたものを拾い上げている点でゾクゾクするぐらい凄いんですけど、そうした話は別の機会に。
さやわかは、同じく星海社新書から『10年代文化論』というのも出していて、これもとても面白い一冊です。もしよろしければご一読ください。