8年前に携わった『キャンプ』という名の住宅を再訪して

こんにちは。2017年6月20日(火)、梅雨の合間の晴れ間がのぞくその日、まだ僕たち夫婦が東急東横線沿いの大倉山に事務所を構えていた頃に設計監理した『キャンプ』という名前の住宅を実に8年ぶりに訪れました。

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世田谷のまさに閑静な住宅街の一角にそのお家はあります。

今回、施主の旦那様からお家の不具合についてご連絡をいただき、本来であればお家を建てた工務店さんにお願いするところなのですが、諸事情から他の工務店さんをご紹介することになり、その工務店さんと一緒に伺うことになりました。

僕は、今回このお家を訪れることにある種の緊張感を抱いていました。

それは当時、もちろんお施主さんのご意向をお聞きしながら設計を進めていったわけですが、意匠的には何もしていないような感覚を持っていたからです。否、プランニングでも空間構成でも視覚的効果でも多くの時間を割いて、それしか無いように設計したのです。でも、引越前の出来上がった建物は、なんだかがらんどうのような感じがして、僕は何を設計したのだろうと戸惑った覚えがありました。

完成後時間が経つに連れて、僕は完成写真を時々見ながら、スケール感が膨張してしまって破綻しているのではないか、などと不安を募らせてもいたため、そのお家を見るのが少し怖くなっていたように思います。

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午前11時少し前に到着。妻(うちのボス)と息子も一緒です。お施主さんが、息子も連れておいでよと言ってくださったので、お言葉に甘えて保育園をお休みして連れてきました。

お家にお邪魔してすぐ、僕の心の隅にずっと引っかかっていた不安は解消されました。まず、空間がちゃんとキュッと締まった小ささ、程よい気積であったからです。そして、あのがらんどうのように感じたリビング、引いてはオーバースケールに設計してしまったのではないかという不安が、そうではなかったのだ、これでよかったのだという安堵へと変わりました。

それはどういうことか。お施主さんが住まわれてから置かれた家具、小物、絵画等によって、あのがらんどうと感じた空間がため息が出るほど美しく彩られていたのです。

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そう、本当は僕は知っていたのです。この土地に長く住まわれているお施主さんは、ご両親、またそのご両親から受けつぐ、今では骨董品と呼ばれるような素晴らしいものを、たくさんの上等の絵画を、家具を所有されていたことを。これに施主ご夫婦が新しく揃えられた様々なものも加わり、そうしたものたちが一見無造作に、けれどそこしかないという絶妙のバランスで配置されていました。

「ああ、このお家が完成した。」

建築家とは、時に横暴です。自身の設計において作られた建築が、それ自体自立してしまうような錯覚に溺れてしまいます。

けれど、そうではない建築もある。でもそれは、入れ物とか器ということでもありません。生活と言うべきか、そこでの人の営みと人が触れる大きさのものが建築の持つスケールからグラデーショナルにつながっていく風景があり、そうしたものが絡み合いながら翻ってまた、ひとつの建築を完成するということがあるのだということだと思うのです。

僕は、建築に対するそうした感覚を再確認しました。

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僕たちは、このしばらくぶりのお家で、豊かに育った庭の樹木に囲まれながら、ひと時の静寂を楽しみました。

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また、お施主さんがご用意くださった美味しいお弁当に舌鼓を打ち、楽しい時間を共有しました。お施主さん、この場をお借りしてお礼申し上げます。

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最後に旦那様のポートレートを一枚。

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普段僕は、プライバシーのこともあって、ブログに人物写真をあまり使わないようにしていますが、今回は許可をいただいたので。旦那様の色気というのかな、この人の顔を撮りたいという衝動から、旦那様にご無理を申し上げた次第なんですが。

レンズは50mm単焦点のf1.4。これは、僕の知り合いで感動的なスナップを撮られる方から教えていただき、その翌日即購入したものです。なので、蔵出し写真。手前味噌ながら凄く良く撮れたと思っています。レンズの力9割ですが。