知識は創造の糧になるか -写真撮影の場合-

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こんにちは。

最近僕は、Instagram(インスタグラム)という写真投稿の社交場みたいなのに参加し始めました。正確には、アカウントは持っていて写真を投稿もせずにほっておいたのですが、写真を入り口にして僕たちの事務所のホームページだとか、僕のブログへ多くの人が訪問してくれたら嬉しいなと思って、重い腰をあげて投稿しだしたというわけです。

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InstagramというSNSは、様々な目的の人たちが参加していますが、写真や動画の投稿に特化しているため、コミュニケーションは全て投稿された写真等を通じてということになります。そこには、本当に多くの写真が日々投稿され、圧倒的な作品世界が広がっているわけです。

僕は、Instagramを始めるにあたって、今回一つのルールを設けました。1日二回、午前中の早い時間と夕方に写真を一枚ずつ投稿するというものです。一枚は、僕たちの設計監理した建築物や依頼されて撮影した建築の写真を、もう一枚は、僕が散歩したり旅行した際に撮影したものです。

今現在、投稿した写真数は50枚弱ですが、ここへきて少し困ったなと思うようになってきました。それは、作品の枯渇です。1日二枚の写真を1年365日、つまり年間730枚投稿できるだろうかという危惧が一つ。もう一つは、作品の類似性についてです。この類似性というのは、僕がたとえ別の日に別の被写体を撮影したところで、僕の撮影の癖などで類似した表現の写真がいくつも出来上がってしまい、過去に投稿した写真と被ってしまうんですね。もちろん、強固な作品世界を作り上げていれば、作品の類似性とは、イコール作家性になるわけですから問題ないのでしょうが、僕なんかは強い作品世界を作っているわけでもないので、過去の写真と似ているだけで、なんだかげんなりしてしまうわけです。

まあそれほどこのことについて重く考えているわけでもないのですが、ふと「写真を撮っている人たちは、どうやって作品世界を構築しているんだろう」なんて思ったりもするんですね。

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写真を撮影するというのは、瞬時に撮りたいという衝動に駆られて構図を決めてシャッターを切る点で極めて動物的な感覚を使うので(もちろん被写体や周辺世界を構築したり、撮影者の意思を回避するような撮影方法もあるので一概には言えませんが)、特にスナップやストレートフォトなんかでは、知識よりも感性の方が優位にあるように思われます。

けれど僕は、写真撮影について、感性の優位性について否定するつもりはありませんが、感性こそが創造であるかといえば、そうは思わないのです(撮影した写真を補正したり加工したり、トリムしたりすることについてここでは触れていませんあくまで撮影そのものによって映される写真について書いています)。

実は僕は、写真の撮影についても、写真にまつわる知識が作品世界に厚みを増してくれるんじゃないかなと思っているんです。

建築の設計では、一本の線を描くためには、その背後にある施工方法や部材の取り合いを理解していないと描けないということがあります。あるいは、意匠的な考えを巡らすためには、過去の多くの建築家の作品だったり、歴史的、時間的な意味だったりを押さえている必要があります。これは、表層に立ち現れる創造物の背後に膨大な知識がストックされていることを意味します。

だけれど、写真撮影のテクニックやハウツーではなくて、「知」って何だろう。

僕も、写真関連の書籍などで、こうした「知」を教えてくれるものはなかなかないなあと思っていたのですが、ホンマタカシさんが書かれた『たのしい写真 よい子のための写真教室』(平凡社)はおすすめです。

ここでは「第1章 講義編」のみ触れますが、カメラの誕生からはじまり、アンリ・カルティエ=ブレッソンの「決定的瞬間」、そこから「ニューカラー」を経て「ポストモダン」写真へと移行していく歴史がわかりやすく綴られています。詳細は本書を読んでいただければと思いますが、この移行って、アートでも建築でもそうですが、近代から構造主義を経てポストモダンへの歴史的変遷にやはりというか、当たり前ではありますが合致するわけです。

僕は先ほど、写真撮影は、動物的感性によるところが大きいと書きましたが、こうした写真の歴史がわかってくると、そうした動物的撮影とは、近代期の機械の目の獲得による撮影方法のみを言っているだけだとわかってくる。あるいは、ポストモダンの進行していく世界において、ホンマタカシ杉本博司鈴木理策が出てくる理由も腑に落ちるんですね。

こうした知識がすぐさま僕の写真表現に活かされるかといえばそんなことはなくて、でもそうしたストックが少しずつ沈殿していっていつか爆発して面白いものが生まれるかもしれないなあと、気長に待ちながら、今日もせっせとInstagramに写真を投稿することにしましょう。