本の読み方を教えてください

2018年が明けました。明けて随分経ってしまいましたが、皆様にとって良い1年になりますように、お祈り申し上げます。

新年最初のブログは、建築のことではなくて、写真のことでもなくて、本の読み方について書こうと思います。

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橋爪大三郎氏の書かれた『正しい本の読み方(講談社新書)』になります。

僕は、40歳を過ぎた頃からたくさん本を読むようになりました。きっかけは、「キリスト教の神とイスラム教の神は同じ」ということをある本で知って、「知る」ということに衝撃を受けたというか、快楽装置のスイッチが入ったんですね。

人も中年になれば、自身を取り巻く環境において多くを知っていて、不自由なく生活しているように錯覚してしまうものです。高田純次が言っているような、「自慢話・昔話・説教」というおじさんのダメ要素は、こうした「知っている」、「わかっている」を前提にしているんじゃないのかしら、などと思ったりもするわけです。

40歳までの僕は、本当に本を読む習慣がなかった、というよりは読めなかったように思います。建築の専門書など、他人から勧められたり、読んでいないと恥ずかしいものもあったりするので、とりあえず読んでみるのですが、50頁ぐらいで飽きてしまってそれっきりになったり、心地よい睡眠の助けとなってくれたりで、読破に縁遠いものでした。

どうして本を読めなかったのだろうと、今になって振り返ってみると、それは本の読み方を教えてくれる人がいなかったからではないかと思うのです。もっと言ってしまうと、そもそも本てなんだ、それがわからなかったんですね。

本というのは、過去の書物を受け継いで記されたものです。

例えば、建築におけるポストモダンを規範化する重要な本である『建築の多様性と対立性(SD選書)』というR・ヴェンチューリが記した本があるんですが、「私はこう思う。私はこれが好きだ。」というように、著者の趣味趣向が書かれているだけで、一体何を言っているのかさっぱりわかりませんでした。しかし、これを書いた背景に、それより前の思想があり、そうしたものを記した本があって、それを(批判も含めて)受け継いでいることがわかると、なるほど、ヴェンチューリは、近代への痛烈な批判を書いたのだということを知るに至るのです。

つまり、本というのは、過去の書物を引き継ぎ、体系化、構造化しているものなのです。ですから、本はそれ単独で存在すると同時に、しかし自立するものではありません。このことがわかってくると、一冊の本を読み、その本をより知るために、この本が引き継いだ過去を辿ることになるのです。これが「知」の探求であり、冒険だと思っています。

こうした本の基本的な構造がわかると、内容がわからないことが怖くなくなって、気楽に読書を楽しめるようになります。そして、この「わからない」を知るために、また過去へと目を向けることで眼前に広がる膨大な「知」にこれから触れていくぞと、なんだかワクワクした気持ちになるんですね。

さて、冒頭の橋爪大三郎氏の『正しい本の読み方(講談社新書)』ですが、僕がここで記したことなんか同書の一部でしかなくて、多岐に渡って「本の読み方」を教えてくれています。ここに目次を記します。

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<基礎篇>
第一章 なぜ本を読むのか
第二章 どんな本を選べばよいのか
第三章 どのように本を読めばよいのか

<応用篇>
第四章 本から何を学べばよいのか
【特別付録】必ず読むべき「大著者一〇〇人」リスト
第五章 どのように覚えればよいのか
第六章 本はなんの役に立つか

<実践篇>
第七章 どのようにものごとを考えればよいのか
終章 情報が溢れる現代で、学ぶとはどういうことか

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同書では、読書において「テキストの構造」、「著者の意図」、「この本の書かれた背景」をおさえることが重要だと書かれています。

もし、読書が苦手だったり、本を読むことに意味を見出せなかったり、興味はあるけれどどう読むべきかわからないということがあれば、同書をお勧めします。また、読書という行為について、立ち止まって振り返ってみるのにもいいように思います。

最後に僕が読書する際に気をつけていることを一つだけ書いておこうと思います。

それは、たとえ誤読があったとしてもそれも織り込み済みで、文面をできるだけ忠実に読もうと心がけることです。これはとても重要なことのように思います。

構造主義を牽引したフランスの哲学者であるロラン・バルトが、「作者の死」ということを言っています。バルトは、作品の創造主である作者こそ絶対であるという考え方から作品を自立させて、読者に解釈を委ねるものだと主張しました。ちなみにこの、作者の支配から解放された自立する作品(文学)のことを「テクスト」と言います。こうした考え方は、神を主体とした西欧形而上学的なトップダウンの思想(イデオロギー)の解体を示していて、ポストモダン的な考えによるものです。

それは全くその通りだ、と僕も思うのですが、ポストモダン状況が進行し続ける現代では、この「読者に解釈を委ねる」というのが行きすぎてしまっている感があります。SNS上での批判や誹謗中傷のコメントなどを読むと、ほとんどがテクストを読みたいようにしか読まないものであることに気づきます。さらに言ってしまえば、それは「読みたいようにしか読めない」のではないかとも思うのです。

「読みたいようにしか読めない」は、読書の能力の欠如です。それは、テクストを通じて、意思の疎通や情報の共有が叶わないことを意味します。ですから、まずはテクストをできるだけ忠実に読むことを訓練する必要があるのではないでしょうか。つまりは、読者の側にも「読む」ことを研鑽する努力が必要に思うのです。