7月12日の金曜日、仕事をお休みにして、2つの個展、3つの美術館展のために東京へ行ってきました。
今回は国立新美術館で開催されていました「クリスチャン・ボルタンスキー-Lifetime」をご紹介いたします。
クリスチャン・ボルタンスキーに馴染みのない方も多いかと思いますが、ボルタンスキーは フランスの作家で、日本でいう岡本太郎みたいな存在のアーティストという感じでしょうか?本国では、現代アートの巨匠という位置付けになるかと思います。
僕が学生の頃、ボルタンスキーについての情報は乏しく、確か映像作品を最初に観たように思いますが、それが解説もセリフもないおどろおどろしいショートフィルムだったこともあり、当時の僕にとってボルタンスキーは神秘性を帯びていた記憶があります。
ボルタンスキーは、抽象表現主義以降の作家でコンセプチュアルアートの系譜に入るかと思いますが、今回大回顧展ということで改めて作品に触れてみて感じたことは、思いの外思考の素朴さ、コンセプトの明快さということでした。作品について少々記すとすれば、 形骸化した言い方になりますが生と死について、ということになるのかもしれません。もう少し具体的に言うならば、死によって規範化されている生と、生きた痕跡を記録、保存することの困難、あるいはその不可能生と可能性についてといったところでしょうか。
各作品に簡潔な解説があるので、これと作品を照合することで概ねの理解は可能です。残る部分は、イメージを膨らませて思考を巡らせたり、感情を揺さぶらせたりする余白のような部分だと思います。しかし、ボルタンスキー作品のほとんどが非常に言語的な作品といえるかと思います。 「はじめに言葉があった」というように、キリスト教によって規範化されている文化圏においてパロール(発話)、更には近代以降重要視されたエクリチュール(書き言葉)は、非常に重要な要素です。ボルタンスキーの作品における一連の思考過程は、言葉によって構築されています。
素朴と申し上げたのはこの点で、思考から作品へのジャンプが言葉的で明快であるがゆえに、分かりやすいのです。この素朴さは、時代性による部分も大きい(現代社会の抱える問題の複雑さに比して、思考の変遷が一方向的でストレートという意味において)と思いますが、往々にして巨匠というのは、神秘性をまとって作家自身を孤高の存在に押し上げながら、作品はマジョリティに開かれています。それが良いとか悪いという話ではなく、またそれを誰もができるわけでもないのですが、往々にしてスターというのはそういうものなんだろうと思います。 ただ言えることは、作品を規範化している哲学、宗教、思想や歴史、性といったものが、作品によってトレースされるだけでは、作品強度を保てないということです。良い作品において規範は、作品制作のトリガー(引鉄)に過ぎないということなんでしょうね。