東京アート散歩2019.07.25

こんにちは。

お盆休みも終わり、僕の事務所も通常業務となりました。

お盆の時期は、墓掃除からはじまり、盆棚を飾りご先祖様を送迎したり、お坊さんに拝んでいただいたりと、毎年のことながらなんとなく気ぜわしく動いておりましたが、その他のお休みには富津のジャンボプールに行ったり、東京都現代美術館で開催中の「あそびのじかん」に参加しがてら大学の後輩がプロデュースする美術作品展へ足を運んだりと充実した休暇を過ごすことができました。

また、家の近所の洋菓子店を毎日のように訪れて、軒先で美味しいかき氷を頬張ったりと、夏らしいちょっとした贅沢を楽しんだりしました。

この期間写真を一枚も撮らずにボーッと過ごしていたので、ブログに書けるようなこともありません。

ということで、今回は7月25日に大学の講義の後立ち寄った六本木の森美術館で開催されている塩田千春「魂がふるえる」展をレポートします。

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塩田千春さんは、僕と同年代の作家さんで、ドイツを拠点に世界的な活躍をされている方です。今回の「魂がふるえる」は、東京で開催される大規模な個展ということもあり、大々的に宣伝されてもいますし、観る側の期待値も高いもののように思います。

ここでは展示作品の詳細には触れませんが、作品を貫いているのは膨大な数の交差した糸でした。これに舟や家具、ドレスやトランクケースなどが関係を結び、展示空間を覆い尽くすほどの大きな空間インスタレーションが作り上げられていました。

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糸は、神経回路のようでもあり、またリゾームのようなインターネット空間にような核のない網目状のネットワークでもあり、人間のつながりのメタファーでもあるようです。これに関係付けられたモチーフは、旅や人生を彷彿とさせます。

コンテンポラリーアートというのも現代では巨大なマーケットですから、この作品展も空間体験型のアミューズメントな装いで宣伝されていますが、体験してみて内実は全く異なるものでした。

つまりは作家の強烈な私性の実体化であり、死生観の表出であり、また母系という文脈で読むとすれば(僕はしばしば母系社会的自己承認という言葉を用いて現代社会を語りますが)、「何をしてもいいのよ、ただし私の見ている範囲で」という閉鎖性における操作された自由によって全体化した世界が作り上げられていました。

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観る者は、全方位的に作家の「私」によって包囲されて息苦しくもあり、一方で彼女と同化するような感覚に身を委ねることを良しとしながらも、他方で今すぐにこの場を立ち去りたいという強い拒絶を伴うものでもありました。少なくても僕が感じたこととしては。

これは、僕がこの作品を否定しているわけではなくて、私性の強い作品というものは、往々にしてそういうものだということです。もちろんこうした人間の深淵を辿るような作業にシンクロすることを心地よく感じる方もいると思います。少なくとも、コンテンポラリーアートの多くが今だにマルセル・デュシャンの呪いに囚われながら、アートの外部に解答を求めながらそれをアートの内部にすり替えるというレトリックを常套手段としていることを考えるならば、この作品のように内部を探求し、死の深淵まで潜る作業をやめないという業の方が清く美しくもあるのかもしれません。

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僕は、先述したコンテンポラリーアートのレトリック、思考のパターン化がもはや現代においてその役目を終えているのではないかと思っています。そうした点で、強い私性による作品の実体化というのもアートの可能性の一つであるのかもしれません。ただ、僕がまだ私性や承認やつながりについていまひとつしっくりこないのは、もはや現代社会がそうしたものやことに溢れてしまっているからです。「私性」や「承認」や「つながり」をこれ以上強化することは、本当に有効なのだろうか。それは狭義においてアート、広義にはこの世界の成り立ちという点で。

こうしたことをぼんやりと、もう少し継続して考えていきたいなと、僕は今考えているところです。

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