東京国立近代美術館『窓展』へ行ってきました

こんにちは。

2020年1月19日の日曜日、東京竹橋にある東京国立近代美術館で開催されている『窓展』へ行ってきました。

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「私は自分が描きたいと思うだけの大きさの四角のわく[方形]を引く。これを私は、描こうとするものを通して見るための開いた窓であるとみなそう。」

『絵画論』(1436)の中で、イタリア・ルネサンスの人文学者、レオン・バッティスタ・アルベルティが述べた一文ではじまる同展、僕たちの身近な存在である「窓」にフォーカスしながら、「窓」の本質的な特質に触れつつ多様な視点を用いて様々な美術、建築作品を読み解こうとする試みです。

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窓は、境界としての壁に開けられた開口部のことで、これによって境界に穴を開け、境界の此方と彼方を横断する仕掛けであり、向こう側の景色を切り取りながら取り込んだり、こちら側の生活を外側に見せてしまう覗き見の仕掛けでもあったり、あるいは光を取り入れたり、ガラスに像が反射したりするようなものです。また窓は、物理的にそのようなものであるとともに、哲学的な意味を喚起するものでもありますし、感情を揺さぶる仕掛けでもあり、なにかのメタファーであり、そして美術的な表象の定着という点でも多くの美術作品に残されてきました。

同展では、「窓と建築の年表」が展示されていますが、それさえも窓について知ろうとするならばほんの一部なのでしょう。ましてや、同展に展示されている美術、建築作品に至っては、さらにその一部でしかないわけですが、それでも多くの作家の素晴らしい作品を堪能することができました。

同展は、窓を意味論的に扱いながら、作品を通じて窓の本質的な特性(物理的にも意味的にも)をあぶり出そうとするようなものではなく、そうしたことを担ってもいるけれどむしろ窓そのものをモチーフとする良質な美術作品を素直に見せてくれる印象を抱きました。

アプローチによって如何様にも解釈することができるのも、多層的で多様な窓の特性でもありますが、僕自身も美術館の意図していることをできるだけ汲み取れればとの思いから、はじめから斜めに読もうなどと考えず、展示された良品に素直に向き合うことを心がけました。

とはいえ、事前に展示される作品と作家の幾らかは調べてもいたので一応お目当てがありまして、ここではそのほんの一部ではありますが、ご紹介できればと思っています。

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この絵は、アンリ・マティスの『待つ』(1921-22)という絵画です。ニースのシャルル=フェリクス広場に面したアパートの一室で描かれたもので、内装はマティスの好みに改修されています。

窓を正対しての一点透視図法による室内から海へと抜ける構図ですが、非常に静的です。窓辺には二人の女性が立っていますが、この安定した構図の中で一人は窓に手を添えて遠くを見つめ、もう一人は手を後ろに組んで頭を垂れています。このささやかな動きが鑑賞者の視線を人物へとフォーカスして、さらには二人の女性の心象風景をイメージさせてもいるんですね。

この水平垂直を強調した一点透視による静的な背景と動きある人物という対比は、実は僕も写真撮影で意識していることです。余分な要素を削りながら安定した構成を意図し、同時に人物へと視線を向けるので、絵としてもとても美しいものです。

また、マティスの色使いと面的な筆跡というのも、僕はとても好きです。色を上手に選べる画家というのは、実はそれほど多くないと思っていますし、建築家に至っては、さらにその数は少なくなります。僕は、建築設計でも色を使うことがありますが、この絵のように美しい色使いの絵画などを観て目を養っています。筆跡も面的に塗り分けを行なっていて、具体的な情報を減らしていて抽象度を上げているのが鑑賞者を絵に引き入れる点で効果的です。

それにしてもマティスは黒を使いません。映画『天気の子』の新海誠監督のアニメーション作品も黒潰しをしませんが、暗部の表情をきちんと描くことで、自然ながら印象的な窓と外の風景を表していると思います。

ところでこの絵の額装はなかなかゴージャスなものですが、額そのものが窓として機能もしています。つまり僕たち鑑賞者は、窓を通して室内を覗き見していて、その奥にある窓から外の風景までも見通していることになります。この入れ子状の窓について、絵画のトリックについての小論が書けそうで、とても面白いと思います。

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次にご紹介するのは、ヴォルフガング・ティルマンスの『tree filling window』と『window box(47-37)』です。

この二つの写真も、正対した窓を通して外の風景を切り取っているものです。しかしマティスの絵画と異なるのは、写真の全体枠が窓そのものになっていて、屋内風景は映されていません。また、額装は簡素な木製の枠で、つまりこの写真全体がまさに窓になっていて、壁にかけられるとそこに窓が出現してその外部の風景に開かれるという仕掛けになっています。

この写真は、写真が窓と同義であることを表していて、作品フレームが何を規定しているのかということについて意味的な問いを投げかけてもいるように思います。

このように作品においていかに窓を捉え、扱うかによって作品の意味内容に変化が生じるというのはとても面白いですね。

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さて、今回僕が最も期待していた作品がゲルハルト・リヒター『8枚のガラス』です。様々な角度に傾けられた8枚のガラスで構成されたこの作品、その35%は光を反射して鏡のように像を映し、65%は向こう側が透けて見える特殊なガラスを使用しています。

この作品の周りを観賞者がぐるぐると歩き回るとき、像がガラスに立ち現れては消え、幾重にも重なり、また作品の奥に立つ鑑賞者と重ね合わせもするのです。

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リヒターは、恣意的に対象を選ぶのではなく、そこに立ち現れたものこそが真実だと言っていますが、このように作家は仕掛けを用意するだけで、ここに関わった対象(像)にこそ真実があるという手法、さらには立ち現われるものに真実を見ながら同時に隠されているものが真実に回収されていることを示してもいます。リヒターの作品に、記念写真のような私的な風景写真にその上から絵の具をかけているものがありますが、これもそこに見えているものに回収されるかたちでなにかが隠されているということであり、それはイメージを誘発するトリガーでもあるのだと思うのです。

作品が作家の恣意性から離れて自立するとともに、視覚言語が見えないもの(隠されたもの)をも包摂するという点で、僕はリヒターを今最も重要な作家の一人であると考えています。

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最後に奈良原一高の『王国』より「沈黙の園」の中の一枚を。この写真は、1958年に発表されたもので、北海道の男子トラピスト修道院でのものです。僕は、閉じた世界と外部との境界について窓を隠喩的に使った、この光に満たされた一枚を美しいと感じ写真に収めました。

奇しくもこの写真を撮影したこの日、奈良原一高は、他界されました。僕は宗教的な信仰を持ちませんが、それでも何か作家とその作品が鑑賞者である僕と糸のようなものでつながっているように思えて、不思議な感覚を覚えました。

享年88歳、心からご冥福をお祈り申し上げます。

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