こんにちは。
「在宅を楽しもう -僕の半径1mをご紹介します」の2回目になります。
今回は、いくらかの絵本をご紹介できればと思います。
絵も美しく、お話も素敵な絵本というのは、たくさんあります。僕が知るものだけでもとても多くてご紹介しきれないと思いましたので、今回はテーマを一つ設けてご案内できればと考えています。
一言で言えば、それは「承認」をめぐる物語です。
先日僕が読んだもので、どうしても引っかかる内容の文章がありました。それは、筆者が持論を展開するにあたりその正当性を高めるために、その外側にいる者、あるものを一段下に見た上で批判的に比較するものです。こうした文章に、僕は「承認」への渇望を見てしまいます。つまり自分が他者から承認されることへの過剰な欲求を感じ取ってしまうのです。
このブログで「承認」について詳しく記すことはしませんが、人間は「承認」されることに並々ならぬ野心を燃やす存在であることは事実のようです。人間は、自分を確かなものと知っている(ように思っている)が、他者については分からないゆえ不愉快な存在ですらある。人間は他者と関係を持つとき、まず「私を認める」ことを強要するのだそうです。なぜか。
人間は、生まれる前の記憶を持ちえません。つまりはこの世に生を受けた時から、欠落を抱えているわけです。はじめから自分は何者であるか分からないその欠落したピースを埋めようとする作業が、他者に自分を認めさせる行為になるようです。
この辺りの話にご興味のある方には、今村仁司著『交易する人間(ホモ・コムニカンス)贈与と交換の人間学』(講談社学術文庫)ですとか、斎藤環著『承認をめぐる病』(ちくま文庫)、常見陽平著『「意識高い系」という病〜ソーシャル時代にはびこるバカヤロー』(ベスト新書)なんかをお勧めします。今村仁司著『交易する人間(ホモ・コムニカンス)贈与と交換の人間学』(講談社学術文庫)は、学術論文に近く読むのに骨が折れるので僕もまだ半分しか読めていませんが、非常に面白く、読み終わったらレビューを書いてみたいと思っています。
さて、ではなぜ他者の過剰な承認欲求に対して僕の気持ちが動くのかといえば、それは僕も生まれながらに欠落を抱えた「人間」であり、承認への飢えを持ち、それが心の深い部分をざわつかせるからに違いありません。
絵本についていえば、「承認」を主目的に書かれたというよりは、ひとの「生」について創作されたものに少なからず「承認」をめぐる問いが内包されていると言ったほうがいいかもしれません。自分が認められるということについて、しかしそれは他者無くしては実現しない点で他者性を承認することからしか成立し得ないものであり、そうした矛盾を孕んだ問いに対していくらかの絵本は心温まる回答を用意してくれています。
佐野洋子作・絵『100万回生きた猫』(講談社)
輪廻転成を繰り返す猫が最後に他者を愛し、愛されることの意味を知り、永遠の死を獲得する物語。存在の欠落とは、生まれる前と死後の記憶であり恐怖の源でもある。生きる意味とこれを補完する死の存在が哲学的な作品。
神沢利子作・G.D.パヴリーシン絵・Gennadiy Dmitriyevich Pavlishin原作『鹿よ おれの兄弟よ』(福音館書店)
シベリアの森で生まれた猟師(おれ)は、小舟を漕ぎ、川を上り、鹿を狩りにゆく。死んだ両親、家で待つ家族、幼き日の記憶が脳裏をよぎり、鹿狩りを通じて鹿と同化する主人公の死生観が描かれる。力強くも美しい散文詩と緻密な描写による東洋的な細密画が、北方狩猟民族の世界観を描写している。
安東みきえ作・ミロコマチコ絵『ヒワとゾウガメ』(佼成出版社)
友達になった鳥たちの生は儚すぎて、100年も生きるゾウガメは心を閉ざしていた。そんなゾウガメのために旅に出るヒワとの心の交流の物語。他者に心を砕くことが、自分の生に彩りを与えることを教えてくれる。ささやかで優しい話、ミロコマチコの粗野な筆跡と緻密なデッサンによる絵のコントラストがとても美しい。
荒井良二作・絵『きょうはそらにまるいつき』(偕成社)
月明かりに照らされた人々は、同じバスに乗り合わせ、同じアパルトマンに住み、同じ街に住んでいる。乳母車の赤ちゃんが見るまるい月は、はるか海のクジラを、山の動物を等しく照らし、そしてまた赤ちゃんを照らしている。存在の肯定、誰もが共感する感情の揺らぎを言葉少なに、美しい月明かりの絵が表現している。
ここに紹介した本は、どれも美しい言葉と美しい絵で読者を魅了してくれると思います。もしお子さんに読み聞かせされるようなら「あなたはここに存在するだけで愛されている」ということを、ご自身で読まれるなら「私は存在していいのだ」ということをこれらの本は、きっと教えてくれると思います。もしよろしければ、どうぞ一度お読みになられてみてください。