こんにちは。
8月の終わり、僕たちが設計監理していおりました千葉県のM邸の工事も概ね終わり、建主様のご好意により8月29日、30日の土曜日、日曜日に内覧会を開催いたしました。
コロナ禍が収束する気配もない状況でありましたので、千葉県を拠点に活躍されている建築関係の方々を中心にひっそりお声がけしたのですが、それでも二日間で20名余の方に足をお運びいただきました。わざわざ遠方からお越しくださいましたこと、この場をお借りしてお礼申し上げます。
この家は、ご夫婦と小学校と保育園に通う二人の男の子の4人がお住まいになります。当初ハウスメーカーで建築することをご検討されていましたが、ご要望をプランにすると延べ床面積50坪になってしまい、予算的にもオーバーしてしまうことから、僕の事務所をご訪問されました。
今回の設計では、ご予算に見合う大きさにプランをまとめていくことが求められたのですが、そのためにご要望を諦めるのではなく、概ね全てのご要望を満たしながらプランを縮小していくことを試みました。これは単純に部屋の大きさを小さくするということではなくて、ご要望と機能諸室を一旦バラバラにして再構成し直すことで、思いも寄らない空間のつながりや分節、部屋や空間が担う機能の複雑な解答を生み出し、プランだけを見てもどうしてこんな計画になっているのかよくわからないものになっていきました。設計の職能としてプランが上手いとか下手とかはありますが、そうした規範に乗らない設計、つまりは「変な」プランが出来上がりました。しかしこれは、お住まいになられる建主の方にとっては最適解であり、最良の計画になっているのです。
なぜ僕は、こうした設計を進めたのかといいますと、建築、特に木造住宅における美の基準、もっと言えば設計の品みたいなものが規範化されているのではないかと疑問を持ったからです。建築の設計というのも手練の技であり、職能技術的な側面がありますので、しつらえはこうしたほうがいい、ディテールはこう、寸法はこのようにというように美の方法化みたいなことを昨今目にするようになり、もちろんそうした世界もあるのでしょうけれど、建築を語る言語はそれだけではないし、もっといろいろなことを試してみたいと思ったからです。
例えば着物って要素を絞り込んで美を規範化しているので、細やかな部分に美の差異や個性を見出すと思うのですが、職能技術として建築を突き詰めていくと、こうした世界に行き着くこともあるわけです。でも衣服はもっと自由な側面もあるし、価値が多様であるならば建築も同じであろうと、そのように思ったんですね。
美の規範化を疑うとして、だからといって新たな美の基準を提示するのではなく、今回僕は、そうしたレギュレーションに頼らずとも建築を前に進めるものとして、要望を分解して再構成するだけで建築が「変な」ものとして立ち上がるということをやってみました。もちろん僕がプランを取りまとめるわけですから、その過程で作為的に操作がなされるわけですが、それは僕の設計の癖だったりして、恣意的である以上のことをやらない、つまりはデザインのためにデザインをしないことを心がけました。同様に言語的コンセプトの実体化だとか、コンポジションとしてのプランや立面計画だとか、そうしたことも見て見ぬ振りをしました。
この辺りのことについては、より厳密に理論武装して言語化できると思っていますが、今はそこに力を注ごうと考えていないため、今後何かの機会に文章にまとめてみたいと思います。今は、完成したこのお家を体験して、空間的感覚を身体に覚えこませたいと思っています。
今回の内覧会で、お越しいただいた方の多くから様々なご感想を頂戴しました。大変ありがたく思いますとともに、今後の設計の糧にしたいと考えております。また、今回こうした機会を設けさせていただくことを快諾してくださった建主様に改めてお礼申し上げます。