国立近代美術館『ピーター・ドイグ』展

こんにちは。

9月17日の木曜日に、お友達にお誘いいただき、本当に久しぶりの東京散歩を楽しんだのですが、長い引きこもり生活で鬱屈した気持ちから解放されて再び僕の中の美術熱が再燃しました。

そこで、9月末の4連休を利用して、東京竹橋にある東京国立近代美術館で開催中の『ピーター・ドイグ』展を訪問しました。ピーター・ドイグの作品を生で観たことがなかったのでずっと気になっていたのですが、本来であれば6月終了予定であった同展でしたがコロナ禍の影響で開催自体が10月11日まで延期され、幸いにも実物を拝見することが叶いました。

僕にとって、今回同展を観られたことは、今年一番の収穫であったように思います。

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当日は、一人で車を運転して竹橋に向かいました。下道を使っても1時間30分ほどで行けるため、ちょっとしたドライブを楽しむ事にもなりました。

美術館では、検温、消毒、ソーシャルディスタンスの確保と、コロナ対応が徹底されていて、安心して美術鑑賞に気持ちを注ぐことができました。こうした対応の徹底は、公共機関では特に厳重に感じますし、前回の東京散歩で感じたこととして、店舗や飲食店などの対応も非常に細やかなものであり、マスメディアなどで取り上げられている以上に東京でのこうした取り組みに感心したのでした。

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さて、お目当ての『ピーター・ドイグ』展ですが、非常に素晴らしいものでした。僕の学生時代は、すでに抽象表現主義以降のアートシーンになっていましたので、純粋な意味での絵画の位置づけは、あまり高くなかったと記憶していますし、僕自身も近代を下敷きにしたコンセプチュアルな作品や思想的なものなどコンテンポラリーな動向を注視していたと思います。

抽象表現主義について簡単に触れておきますと、近代期のシュールレアリズム、抽象画、表現主義などを下地としながらアメリカで花開いた芸術運動で、絵画も、多様化し複雑化するアートの一つの表現手段になっていきました。絵画の抽象化、巨大化、フレームレス化など、その表現手段の幾らかを挙げるだけでも抽象表現主義が新たな絵画の地平を開き、コンテンポラリーな絵画の系譜を刻んだわけですが、同時にそれは、絵画の終焉をも孕んだ運動であったように思います。もし別のアプローチがあったとして、絵画は全く異なる扉を開いたのではないかと考えるとワクワクしますが、ピーター・ドイグの絵画には、そうした「もしかしたらこれが絵画の主流であったかもしれない」と思わせる、パラレルな世界のメインストリートを想起させるものだと、そのように僕は思うのです。

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ピーター・ドイグは、過去の絵画や映画のシーン、これに自身の体験的(原)風景を重ね合わせ、多様で複雑な作品世界を作り出します。それは幻想的であるとともに不穏なものでもあります。僕は、建築体験において、連続する空間体験の脳内編集による総体の理解ということを重要視しています。ピーター・ドイグにおいても、様々な体験や過去の物事の強烈な印象などを一度脳内で編集することで、観る者にもかつて体験したことがあるような、しかし全く新しい絵画を提供するのだと思います。ピーター・ドイグの絵画は、紙面の構成一つであっても目を見張るものがあります。水平線による分割、反復、鏡像反転とこれによる虚実の転倒など、非常に多様で知的なイメージの重合が、絵画に奥行きと広がりを与えています。

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そして、そうした複層的に意味を孕んだ絵画が、全体を統合しながら実態としての「絵画」自体へと昇華していることに、鳥肌が立つような衝撃となんともいえない幸福感を感じたのでした。

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