こんにちは。
先日携帯を開いたらたまたまIQ診断をしませんかというお知らせがあり、興味もあったのでやってみることにしました。22問の設問に答えるだけの簡単なテストで診断結果は有料にてお知らせするとのこと。お金を払うほどのことでもないと思い、ほっておいたら2日後に料金半額のお知らせがあり、1000円払って結果を知ることにしました。先方の思惑にまんまと引っかかったわけですが、自分のIQを知るというのは、なかなか興味深くもあります。IQ130以上ですと全体の上位2%に入るそうです。しかし僕はそれには至りませんでした。予想していた通り凡庸な人間であることを改めて知っただけとなりました。
これと同じ時期にIQにまつわる記事を読みました。それは、IQ141の小学生が学校に馴染めないというもので、IQの高さゆえに周辺環境と折り合いがつけられないことの苦悩と、そうした才能を伸ばしてあげられるようなフレームの構築が必要なのではないかというものでした。この記事について、僕はその通りだと至極納得し、同時に全く異なることを考えてもいました。ADHDなど発達障害は、発達の凸凹が顕著にある状態のことです。発育のある部分は平均的にあるいはそれ以上に発達するが、ある部分では発達が遅れているということです。しかしこれは分母に対する平均値の帯から外れるものを障害と認定しているだけで、もちろんグレーゾーンもありますし、平均値の帯の中にあっても人の脳の成長というのは誰しも凸凹であるはずです。発達の凸凹は、この帯の下にあれば障害となりますが、帯の上にあると特別な才能になるんだよなとIQ141の小学生について思い、しかしその子の脳の発達も多分凸凹なんだろうと想像しました。言語化することで才能であったり障害であったりカテゴリー分類がされることについて、しかし人間は誰もが凸凹な脳を所有しており、加えて精神疾患など脳のバグなどもありますし、そういう意味でそもそも人間は誰しも不完全な存在なんだということでしょう。人は、自分を世界の中心に据えて、それとの比較において世界を認識し判断する点で自分を正として見てしまう認知バイアスが掛かっています。しかし、僕という人間が世界の中心に存在するわけではないということを、自分という存在を常に俯瞰的に見る癖をつけられたらと、僕は、脳の凸凹を抱えながら凡庸な知能指数でそんなふうに思ったのでした。
さて、タイトルの通り今回は新海誠監督によるアニメーション映画『すずめの戸締まり』について書きたいと思います。
前回のブログで『すずめの戸締まり』を鑑賞して、どうしても作品世界に没入して楽しめきれなかったというようなことを書きました。これは作品の良し悪しの問題ではなくて、僕個人の琴線に触れる部分、趣向に多分に関わるのではないか、というかそういう切り口で考えてみようと思うようになりました。というわけで、このことについてこのレビューをネタバレなしで書きたいと思いますので、安心してお読みください。
「物語」の基本構造は、「行って帰ってくる」です。主人公は物語の始まりと終わりで別の人間になっている、つまりは成長を遂げるというのが一般的です。『すずめの戸締まり』では、主人公のすずめが、かつて失ったものを獲得する、あるいは救済されるまでの旅を描いた物語です。
思春期の少年少女が「大人」になるという話は、多くの作品世界で描かれてきました。『マジンガーZ』のように拡張した身体の獲得が直接的に大人になるという話もありますが、『すずめの戸締まり』では喪失を埋めるピースを探すことが大人への成長のメタファーとして機能しています。大人になるというのは、そもそもの喪失があるなしに関わらず、何かを乗り越えて何かを獲得するという通過儀礼のようなもので、『新世紀エヴァンゲリオン』もまた「獲得」の物語だといえます。多くの作品が成長や子供から大人になる過程を描くのは、それが誰もが必ず経験する一回きりのことだからです。ですから「獲得」の物語は、人の心の芯にある柔らかい部分を刺激して感情を揺さぶります。
ところが僕は同じ新海誠監督の『天気の子』で激しく揺さぶられた感情程には『すずめの戸締まり』に感情移入できませんでした。どうしてか。僕は、多分成長における「獲得」よりも「喪失」の方にシンパシーを感じるんだと思うからです。『天気の子』や村上春樹、フィッツジェラルドの幾らかの小説で描かれるのは、子供が大人になる過程で失うものについてです。何かを「獲得」するためにそれまで自然に持っていたものを捨てなければならないという、等価交換に似た部分が描かれていると僕の心は震えます。それは痛みを伴うもので、少年少女でしか持ち得ないもの、その喪失についてきちんと描けるかどうかが作品評価の重要な点であると、もちろんこれは僕の個人的見解ですが、考えています。そして、こうした「喪失」を描いた作品というのは、「獲得」を題材にしたものに比べて非常に少ないですし、多分「獲得」よりも表現するのが難しく、非常にセンシティブで壊れやすいものであると思うのです。
『すずめの戸締まり』の場合、主人公の幼少期の喪失を埋めるための旅が主題ですから、そこに魂の救済はあっても、厳密には人間的成長、つまりは子供から大人になることをメインテーマにしているわけではありません。ですから、この作品はこれで良いわけです。同作品の圧倒的映像美や、等身大の人の関わりから超自然的な壮大な世界への振れ幅の緩急、そして何より喪失を抱えながらそれが許され、魂が救われることに鑑賞者は素直にシンクロするんだと思います。泣くという行為が一種の快楽装置であるように、この作品は一つのエンターテインメントでもあると思います。ですから僕は、この作品について批評しているというよりも、僕自身がかつて持っていてしかし思い出すことも再び獲得することも叶わないものが、ふとした瞬間に残響のように、捉えることは叶わずともその片鱗によって心を震わせるような体験を『すずめの戸締まり』にも期待していたのかなあと思うのです。
僕は、この作品について批評するつもりも採点するつもりもありません。ただ、この映画を鑑賞して、僕が心を震わせる部分、ヒットポイントについて改めて自覚したに過ぎないのです。