近代と呼ばれる時代が解体されていく経緯について、東浩紀、宮台真司、小熊英二を参照しました。
ここではその後の時代、つまり今現在僕たちが生きるこの世界の「モデル」について、やはり東浩紀著『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会(講談社現代新書 2001)』を参照しながら考えたいと思います。
その前に、クリストファー・アレグザンダーの論文、『都市はツリーではない(1965年)』について触れておきます。
建築を勉強された方は、なじみ深いと思いますが、「都市は階層的に構成されるツリー構造ではなく、様々な要素が絡み合って形成されるセミラチス構造である」ことを説いた小論文です。
セミラチスとは、網目状のネットワークのモデルです。
セミラチスに類似するものとしてジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの共著『Mille plateaux, capitalisme et schizophrenie (1980)』日本では、『千のプラトー─資本主義と分裂症 (宇野邦一ほか訳 河出書房新社 1994)』に登場するリゾームをあげることができます。
興味のある方は同書にあたっていただけると幸いです。
こうしたモデルは、マスターアーキテクトによるトップダウン的な都市計画(ひいては建築計画)の不可能性を露呈します。
その後、この不可能性を前提として都市の生成について様々な試みがなされますが、たとえば磯崎新の『珠海/海市計画(1995年)』もそのひとつといえます。また、アレグザンダーも、人が心地よいと感じる環境を分析して、普遍的と考えられる253のパターンを挙げ、この組み合わせにおいて都市、あるいは建築をつくる『パターンランゲージ(1977)』を提唱します。これは、日本では埼玉県入間市にある東野高等学校に実現されています。
セミラチス、あるいはリゾームというモデルは、現在でいえばインターネット、SNSのネットワークに近いものだと思います。深層がなく周縁もなくフラット、無数の島宇宙がネットワークを結んでいくイメージです。
『パターンランゲージ(1977)』は、価値、あるいは美の普遍性における253のパターンを挙げている点で構造化されていますので、これはカタログにインデックスを貼っていくような作業です。
これに対し、インターネット環境は、もはや閉じたデータベースではありません。これをポストモダン的な状況が進行していると考えるならば、以前書いた『瀬山君 ポストモダンを語る』で瀬山君が語った「ライブラリの全貌を把握できなくなってきたあたり、具体的には2万曲を超えたくらい(笑)から、このフラット性がどんどん前面に出てきた」、「とにかく石も玉もすべてがいっしょくたになってそこに入ってる。」となるわけです。
東浩紀まで行き着きませんでした。東は、このポストモダンの進行する状況での消費の特性を「データベース消費」と呼んでいます。そしてこのデータベース消費は、『「シミュラークルの水準」が、「データベースモデルの水準」の裏打ちがあって機能している』と言っているのですが、ここがとても重要です。
これについては次回以降で。
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開かれたデータベースとはつまり価値の相対化です。村落共同体や家族幻想が成立していれば、僕らは、自分の確固たる居場所を持ち得ています。それがなくなってしまうと、立ち位置が定まらずにふわふわしてしまいます。そうなると、決断主義的になにかにコミットして安定をはかろうともします。普遍世界をつくって閉じてしまう、時に排他的に振る舞うということが起こりもする。これを乗り越える想像力として今後、大澤真幸著『不可能性の時代』(2008 岩波新書)、宇野常寛著『ゼロ年代の想像力』(2008 早川書房)等についても紹介していきたいと思います。
僕のブログ『新世紀エヴァンゲリオンをこう読む』は、これに至る伏線です。