「思想」と一致するもの

こんにちは。

3月に入り、寒の緩みと共に様々な花が咲き出しました。春ならではの天候の定まらない日も多いですが、それでも春の訪れは、心躍るものです。

以前僕は、このブログで建築家の山本理顕さんが提唱されている地域社会圏主義について触れましたが、これを読んでくださった千葉の大学で教鞭をとられている金子祐介さんから『Hajime YATSUKA Interviews 2 八束はじめを通して綴る戦後日本と建築史[1968-2002]』という本をご恵贈いただきました。

こんにちは。

 

過去2回のブログで、山本理顕さんが提唱する『地域社会圏主義』について書きました。

最初に、近代の「西欧形而上学的な一元的な価値」を解体して相対化していくのがポストモダンだというお話をしながら2回目で『地域社会圏主義』について説明を行い、山本理顕さんがポストモダン建築の一つのスタイルである「プログラム」を思考する建築家の一人だということにも触れました。

こんにちは。

前回は、山本理顕さんが提唱する『地域社会圏主義』について考えてみたいと思いながら、この前段階として近代からポスト近代への移行に伴う建築的な思考の変遷について書くにとどまりました。

ポストモダン状況の進行を簡単に言ってしまえば、西欧形而上学的な一元的な価値の解体であり、あらゆるものが相対化されていく過程と言えるかと思います。

今回は、そうしたことを踏まえながら『地域社会圏主義』について考えます。

こんにちは。

いつの間にかもう12月、すっかり冬らしくなりました。

寒い日が続いていて、朝起きるのにもちょっとした勇気が必要ではありますが、ここでの話は、数ヶ月前の9月初旬に戻ります。

 

毎年夏休みの最後に、東京造形大学上田知正教授のゼミでは、ゼミ生を対象に、東京八王子にある大学セミナーハウスで合宿が行われます。

学生各人が、上田先生から与えられた、近代から現代に至る建築思想に関する本の数々を割り振られて、これについての要約を発表します。

建築思想史を俯瞰しながら、それぞれの著書が記された時代的背景とその影響下にある建築の考え方について学べる点で、僕も非常に勉強になります。

抽象度と共感についての雑記

こんにちは。

ここ最近、幾らかの美術展やアーティストトークを拝見して、抽象度という言葉を聞くようになりました。この抽象度という言葉、最近書かれた本を読んでも度々出てくる言葉ですが、ちょっと前まではこうした言葉を耳にすることがなかったと思います。

ここでは、抽象度を上げるということが、アートや写真、建築などでどのように作用し、どんな効果をもたらすのかということについて、ちょっと考えてみたいと思います。

ただ、僕の脳内でこれについてまとまっているわけではなく、しかし非常に重要に思われもするので、散らかった思考の破片を吐き出しながら、散らかったままに論考してみることにします。

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本の読み方を教えてください

2018年が明けました。明けて随分経ってしまいましたが、皆様にとって良い1年になりますように、お祈り申し上げます。

新年最初のブログは、建築のことではなくて、写真のことでもなくて、本の読み方について書こうと思います。

テキストはこちら。

2017年3月10日、山梨県中央市の住宅が完成し、無事施主ご家族様にお引き渡しすることが出来ました。各検査後の是正、補修工事も完了し、お引き渡しの1週間前には、お施主さんのご厚意により完成見学会も開催いたしました。

ご自宅を開放してくださったお施主さんご夫婦、また、基本設計段階から設計をサポートしてくださり、完成度の高い施工をしていただいた工務店さんに改めてお礼申し上げます。

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僕は、入門書が好きです。

「何々入門」とか「はじめての何々」とか、そういう書籍を見かけるとつい買ってしまいます。

また、専門書よりも新書が好きです。

「入門」というと、なんだか専門分野についてそのうわべをすくって薄く伸ばしたようで、実は何も分からないのではないか、とか、誰もが理解できる文章と内容で、読み応えに欠けるのではないか、とかつい想像してしまいますが、決してそんなことはありません。

専門性を追求していくと、その名において分類化され、狭義の項目に特化し、領域を狭めても行くものです。僕は建築設計を生業にしていますが、そもそも建築の設計は、例えば一方で技術的な専門性を探求することが必要ですが、構造や設備、その他諸々の事柄に対して俯瞰的な視野を要するものでもあります。こうした、見ている、あるいは自身が立っている階層を上げて思考すること、これをメタレベルといいますが、そうした抽象度を上げてものを見たり考えたりすることは、とても重要なことなんです。

また、長年建築とつきあっていると、建築の生まれる背景、それを一言で時代性と言ってしまっても良いのですが、そうしたものを知ろうともしてしまうわけです。時代的背景を知ろうとすると、どうしても思想や哲学だったり、ハイカルチャーやサブカルチャーといったものに触れる必要が出てきます。

つまり、見る世界を狭めるのではなく、広げて領域横断的に、俯瞰的に思考する癖をつける必要があるので、そうした点で「入門書」は、とても便利なんですね。

もちろん、いきなり分からないままに専門領域の門を叩いてみるのも一つの手です。「分からない」を分からないままに探求し続けるといつの間にか分かってくることもあるからです。でもそれは入門書だって同じことです。入門書は、誰もが分かるように書かれていると思ったら大間違いです。例えば「現代思想入門」なるものが存在していたとして、これを読解するのは容易なことではありません。先にも記したように入門書の多くは、思考の階層を上げて、俯瞰的に総括しているだけであって、その分野を易しく解説してくれるものではないのです。

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前回のブログの続きになります。

前回は、『建築と日常 No.3-4合併号 特集:現在する歴史』を読んで、建築と「引用」、あるいは建築における「引用」について掘り下げた記述を試みるため、その序章として近代建築からポストモダン建築への移行について書きました。

「建築は歴史を内包し、それを日常に現在させている」事実、「死者たちの不滅性の中に身を置くことの重要性」を紐解くための第二回。今回は、ポストモダン建築の視覚言語、そこからこぼれ落ちたパラレルな言語的解釈にまで踏み込むために、「今、ここ」を語るのみの世界の状況について、データベース消費を用いてポストモダン状況の進行する世界を記します。