「LOVE LOVE LOVEずっきゅんだね 君にほらLOVEずっきゅん」
大学の大先輩に「いいよ」と言われて聴いたところ、どハマりしました、「相対性理論」。
大音量でリピート再生していたら、うちのボス(妻ともいう)に
「気持ち悪いから私のいないところで聴いて!」
という刺すような一言。
「相対性理論」がお気に召さないのか、僕が気持ち悪いのか、たぶん後者ですが、若干不穏な空気漂う我が事務所、みなさまいかがお過ごしですか。
さて、ところで千葉移転に伴う事務所工事もほぼ完成となりました。

千葉への事務所移転、1979年築のビルの一室の内装工事顛末記の第四弾です。
内装工事も8割程度終了し、空間の雰囲気がつかめてきました。

千葉への事務所移転、1979年築のビルの一室の内装工事顛末記の第三弾です。
構造躯体が露になった現場で、いよいよ内装工事が始まりました。

10月からの事務所千葉移転にむけて、新事務所の既存内装解体工事が行われました。
仕上げの裏側に隠された建物躯体の本当の顔が露になります。


ブログの更新が滞っていました。
「インフラが整備された」社会状況とは何かについて論じている途中でした。「インフラが整備されていくというのはどういうことか、誰がどのように整備しているのか、そしてインフラが整備されて世界とはどのようなものなのか」という問いを立て、「構造主義」のいくらかの知に当たること。そこから「権力の行使」について目的的に論じることを試みようとしていました。
この話は、まだ途中ですので、今後さらに展開していこうと考えていますが、僕の身の上で転機が訪れましたので、そのことを先行して書いていこうと思います。
ロラン・バルト「テクスト」理論は、読解の多様性を肯定するものでした。これに続いて書いたジャック・デリダ「幽霊」とは、読解の多様性が持つ、ああも言える、こうにもなれる、という変更可能性(幽霊)ゆえに、再帰的に作品=テクストがそうでしかないものとして立ち上がる、ということだったと思います。
では、僕らが生きるこの世界において、これら「知」が教えてくれることは、一体どのようなものなのでしょうか。僕が大学生、専門学校生と関わることで体験した事象について、「テクスト」、「幽霊」から考えてみたいと思います。

ロラン・バルト「テクスト」理論とは、読者は作品を作者から切り離してこれに対峙し、さまざまな要素によって織り上げられたテクストを能動的かつ創造的に、多様に読むことを許す、というものでした。
これは、極めてポストモダン的な思考といえます。西欧形而上学における表層から深層への一方向性と、その最深部には真理があるという考え方への批判的批評によるものだからです。作品をつくるということは無からの創造であり、創造主である作者にこそ審級がある、読解とは、作品を通じて作者=審級=真理に触れる作業であり、その意味において読者は受動的な観客である、ということに対する批判。
つまりツリーモデルの解体を行っているのですが、この点で「テクスト」理論は、以前本ブログで紹介しました東浩紀「データベース消費」と同義であるといえます。

ロラン・バルト「テクスト」理論についての中編です。
前回は、言語運用における三つの「不可視の規制」である「ラング」(langue)、「スティル」(style)、「エクリチュール」(écriture)について書きました。
ラングは、言語運用を外側から規制する母語、スティルは、内側から規制する個人的で生得的な言語感覚を表し、これらに個人的選択の余地はありません。一方でエクリチュールは、選択においての自由があり、しかし選択した時点で「自分の選んだ語法が強いる型にはめこまれてしまう語り口、ことばづかい」というものでした。
内田樹は、テクスト自体が内在する「エクリチュールによる言語運用の不可視の規制」によって、「テクストのほうが私たちをそのテクストを読むことができる主体へと形成してゆく」と言っています。
『テクストと読者のあいだにこのような「絡み合い」の構造があることに気づき、それを批評の基本原理に鍛え上げたこと、それがバルトのテクスト理論家としての最大の業績です。
-中略-
このテクストと読者のそれぞれがお互いを基礎づけ合い、お互いを深め合う、双方向的なダイナミズムに基づいて、バルトはテクストについてのまったく新しい理論を紡ぎ出すことになります。』
それでは、ロラン・バルト「テクスト」理論 -作者の死-について。

僕らは、作品を鑑賞し、あるいは批評するとき、しばしば作品の根拠を「作者」に求めようとします。「作者」の思考において、「作者」の性格において、「作者」の原体験において、というように。
例えばゴッホの絵画を彼の狂気に、ピカソについて彼の性愛に、シャガールであれば彼の無垢な愛に作品の根拠を見いだす、つまり作者の意図を正確に読み込むという受動的な作業を通じて、作品を理解しようとしているのです。
ロラン・バルト(1915〜1980)は、『物語の構造分析』に収録されている「作者の死」の中で、そのような作者の打ち明け話を批判した上で、作品の根拠を作品それ自体に求めることで「読者が主体的に作品を創造する」ことの重要性を説いています。こうした考えを「テクスト理論」といいます。
内田樹著『寝ながら学べる構造主義』(文春新書 2002)を教科書に、「テクスト」理論について理解したいと思います。

「ジャック・ラカン(1901〜1981)の「鏡像段階理論」と「父-の-名」の理論からNHK連続テレビ小説『純と愛』を読解する」というのは、一見して全く異なる事象を結んでいます。ともすれば論の組み立てそのものが疑わしい。そうしたあやうさの上で、しかしそうでしかないものとして読解するということを「視点の移動」について、建築家イームズ夫妻の映像作品『Powers of Ten』(1968)を参照して論じます。
