「カルチャー」と一致するもの

こんにちは。

僕は、アート作品を鑑賞したり、それについて色々考えたりするのが好きなのですが、同じくらい漫画を読んだりするのも好きです。カルチャー(文化)について、高尚なものをハイカルチャー、大衆的なものをサブカルチャーと大別することがありますが、漫画のような絵画もあれば、エンターテインメントとしてのアニメーションが非常にアート性を帯びていたりするように、近年ではその境界は曖昧になってきているようです。それでもハイカルチャー、サブカルチャーという棲み分けは、少なくともその分類は当面の間は無くならないと思いますが、作品として素晴らしいものであれば、そうした言語的分類に囚われずに作品そのものを楽しめれば良いと考えています。

僕がサブカルチャーに触れるのは、ハイカルチャーに比較してサブカルチャーを享受する人の総数が多い(母数が大きい)こと、またそれ自体大衆性を帯びていることが多い点で、非常に同時代的であるというのが挙げられます。つまりは、世の中を捉える速度が非常に速いということになるかと思います。

僕は、サブカルチャー作品単体を純粋に楽しみもしますが、同時に他作品と比較しながらあれやこれやと考えるのも楽しんでいます。先ほどハイカルチャー、サブカルチャーの境界が曖昧になってきていると書きましたが、そうした思考ではそれらの境界を横断して、というより文化的分類をそもそも考えずに作品世界を自由にサーフィンすることをお勧めします。例えば「大人になる」ということについて、新世紀エヴァンゲリオンにはなくて、フィッツジェラルドや村上春樹にはあるものなどと思考を巡らせると、作品をフレーム化しているものを探し当てたり、思想的背景を読み込むことで僕達の生きる世界を映し出したり出来るのです。

そうした楽しみをするには少々の思考的センスが必要であり、これは多少の訓練を必要としますが、慣れてくると作品と能動的に関わるゾクゾクするような体験ができるようになると思います。それは最近流行りの作品の伏線回収なんかの謎解きよりも楽しいんじゃないかな、と思うのは僕の個人的感想です。

さて、前々回のブログで鈴木俊祐建築設計事務所が設計監理された『市原の家』の外観完成写真について掲載しました。今回は、同住宅の内観写真をお披露目します。

2022.07.02-89.jpg

こんにちは。

 

過去2回のブログで、山本理顕さんが提唱する『地域社会圏主義』について書きました。

最初に、近代の「西欧形而上学的な一元的な価値」を解体して相対化していくのがポストモダンだというお話をしながら2回目で『地域社会圏主義』について説明を行い、山本理顕さんがポストモダン建築の一つのスタイルである「プログラム」を思考する建築家の一人だということにも触れました。

さやわか著『文学の読み方』(星海社新書)が、2016年9月に出版されて、これを読み終えた僕は、今ワクワクが暴走しています。

テン年代半ばになって、やっとこうした批評書が出たことに強いシンパシーを感じるとともに、僕がずっとモヤモヤしている問題について、文学という領域の話ではあるけれど、スカッと気持ちをはらしてくれたと感じているからです。

さやわかさん、最高だねってことで、今回は文学について、思うところを記述してみようと思っています。

僕は、入門書が好きです。

「何々入門」とか「はじめての何々」とか、そういう書籍を見かけるとつい買ってしまいます。

また、専門書よりも新書が好きです。

「入門」というと、なんだか専門分野についてそのうわべをすくって薄く伸ばしたようで、実は何も分からないのではないか、とか、誰もが理解できる文章と内容で、読み応えに欠けるのではないか、とかつい想像してしまいますが、決してそんなことはありません。

専門性を追求していくと、その名において分類化され、狭義の項目に特化し、領域を狭めても行くものです。僕は建築設計を生業にしていますが、そもそも建築の設計は、例えば一方で技術的な専門性を探求することが必要ですが、構造や設備、その他諸々の事柄に対して俯瞰的な視野を要するものでもあります。こうした、見ている、あるいは自身が立っている階層を上げて思考すること、これをメタレベルといいますが、そうした抽象度を上げてものを見たり考えたりすることは、とても重要なことなんです。

また、長年建築とつきあっていると、建築の生まれる背景、それを一言で時代性と言ってしまっても良いのですが、そうしたものを知ろうともしてしまうわけです。時代的背景を知ろうとすると、どうしても思想や哲学だったり、ハイカルチャーやサブカルチャーといったものに触れる必要が出てきます。

つまり、見る世界を狭めるのではなく、広げて領域横断的に、俯瞰的に思考する癖をつける必要があるので、そうした点で「入門書」は、とても便利なんですね。

もちろん、いきなり分からないままに専門領域の門を叩いてみるのも一つの手です。「分からない」を分からないままに探求し続けるといつの間にか分かってくることもあるからです。でもそれは入門書だって同じことです。入門書は、誰もが分かるように書かれていると思ったら大間違いです。例えば「現代思想入門」なるものが存在していたとして、これを読解するのは容易なことではありません。先にも記したように入門書の多くは、思考の階層を上げて、俯瞰的に総括しているだけであって、その分野を易しく解説してくれるものではないのです。

DSC02170.JPG

2016年1月16日土曜日、武蔵野美術大学建築学科では、卒業制作作品の公開審査が行なわれました。これは、教授他非常勤講師を含む総勢30名を超える審査員により審議され、一日をかけて金賞、銀賞、銅賞、奨励賞の各賞を決定するものです。

僕も公開審査に参加したのですが、ここでは私見による作品講評をするのではなくて、学生の作品をテキストとして私自身の批評のアップデートを試みたいと考えています。

・・・・・・・・・

千葉里山の住宅が完成し、外構工事も概ね終わりを迎えました。

最後に、この住宅の成り立ちについて書こうと思います。

当然建築を設計し、施工する過程で一貫したコンセプトがこれを背骨のように貫くこと、そうした思考の徹底こそが建築をつくる上での醍醐味だと思っているわけですが、ここでは単純にコンセプトを述べるというよりももう少し深度を下げて、「引用」という側面を用いてこの可愛らしくささやかな住宅を紐解いていきたいと考えています。

以下、思考のスイッチを切り替えるために、文体を変えて表記しますことをお許しください。

001-13.jpg

イタリア・ルネサンス、マニエリスム、バロックを中心とする建築理論、作家論研究の大家であり、武蔵野美術大学建築学科教授でもある長尾重武先生が、この3月で同大学を退任されます。

2015年3月8日雨のちくもり、武蔵野美術大学建築学科の在学生、卒業生が音頭をとって、先生の退任記念のパーティーが開催されました。場所は茨城県石岡市の八郷地区、美しい田園風景広がる里山、茅葺き屋根の一軒の民家です。

DSC00320.JPG

 

「ジャック・ラカン(1901〜1981)の「鏡像段階理論」と「父-の-名」の理論からNHK連続テレビ小説『純と愛』を読解する」というのは、一見して全く異なる事象を結んでいます。ともすれば論の組み立てそのものが疑わしい。そうしたあやうさの上で、しかしそうでしかないものとして読解するということを「視点の移動」について、建築家イームズ夫妻の映像作品『Powers of Ten』(1968)を参照して論じます。

ポストモダン状況が進行するこの世界における「インフラが整備されていく」ことを理解するために、構造主義をガイドとして論じる第一回です。これを解く鍵として、ミシェル・フーコーが提示する「権力の行使」について当たるのが最良だと思います。ですが、あえて迂回し、構造主義的知のいくつかに触れながらそこへ到達することを試みたいと考えています。たとえ直接的到達が不可能であったとしても、この世界を生きる想像力を提示することは、意義あることだと思うので。

今回は、ジャック・ラカン(1901〜1981)について。

ふたつ前の日記『ではなぜ「大きな物語」は機能不全を起こしたのか」で、1970年代から現在までの社会状況の変異について触れました。

書いていて気づいたのですが、この変異の過程を1970年以降のTVドラマにプロットして通史をつくると、よく理解できると思います。

こんな感じです。